マンデルブロ海岸にて
波も高いし風も冷たくなって来たしで海は閑散としている。かと言って海に来て他にすることもないから、砂浜に引きずり出したデッキチェアに座り新聞を広げ、意味ありげな株価チャートの上下を何も考えずに眺めている。打ち上げられた海藻や水母を眺めるのにもとっくに飽きた。こんなものでも眼光紙背を徹すれば、何かの真実にいき当たってしまうかもしれない。せめてすっかり鈍ってしまったアニマルスピリットの欠片でも見つからないものか。
突風が新聞紙を攫う。灰色の紙束が灰色の空の下バラバラになる。予測不可能な非線形の軌道を描いて逃げて行く。あまり必要がなかったサングラスを通してそれを眺めながら、パーカーの前を合わせて立ち上がる。本当に寒くなって来た。
海になんか来るんじゃなかった。
裸の足を冷たい水に晒す。踏むと僅かに水を滲ませる砂浜に足跡をつけて遊ぶ。波が足跡をかき消す。
砂浜の両側はすぐに切り立った崖。針葉樹林が強い風に耐えようと岩肌に張り付いている。背後もすぐに山。あの崖の向こうにも小さな砂浜があるはずだ。
上着のポケットから地図を取り出す。複雑に入り組んだ海岸。長い時を経て川の流れが削りとった土地に、最終氷期の終わりとともに海面が上昇したことによって水が流れ込んでできた地形。
自分がいるはずの場所を指でなぞる。細かすぎて、とてもなぞりきれない。
より縮尺の大きな地図を見ても、やはり陸と海が複雑に入り込みあっており、どんな細い指、例えば彼女の指だって、この前では太すぎる。
ふと顔をあげる。切り立った崖の表面の岩の様子は、どこか海岸の複雑さに似ていた。
その岩に根を張ってへばりついている松の木。上空をかなりの速度で流れて行く雲。
形、形、形。
目を瞑る。
瞼の裏に複雑な光の火花が展開しては消えて行く。
波の音。心地よいノイズ。
彼女のことを思い出す。一緒にここに来るはずだった彼女を。彼女の肌を、髪を、声を、それらが滑らかだと言って褒めたことを。
滑らかだから美しいのか。滑らかなものだけが美しいのか。滑らかではないから自分は美しくないのか。だから自分も滑らかを目指さなくてはいけないのか。
耳をすませばそこに答えがあった。
波の音の形を拡大し続ければ何度も何度も現れる同じパターン。人の耳の奥の渦巻きが自然にそれをフーリエ展開していく。至る所滑らかではないにも関わらず、それは美しい。
指先が海岸線をなぞり、揺れ動く海岸線が足首を洗う。
指先を陸と海との境界から離して、水の上を泳がせば、鈍い光がまぶたの裏を蠢く。境界へと指をゆっくりと近づけていく。暗闇の中を蠢くわずかな光が次第に形をなしていく。
期待しているの?
近づけた指が回れ右すると、せっかくざわざわと集まりだした光がまた闇の中へと散っていく。
がっかりしてる?
面白くなってしまうではないか。
なんどもなんども指を近づける。熱を帯びた図形が次第にいくつも枝分かれしながら伸びていく。指先と境界の間に心地よい電気が走っているようだ。場所を変えると、図形の形も変わる。
どこがどんな感じなのか、教えて欲しい。どこがいいのか教えて欲しい。あなたと私はあまりに違うから。
あなたのように、有限の領域に折りたたまれた無限の長さを持つ精密な境界を、私は持っていない。
私の指が肌を掠めると、悦びの図形が色とりどりに爆発する。細部に細部を積み重ね、どんなに深く分け入っても、心地よい悪夢のように同じ風景が現れ続ける。七色の輝きが、ざわめき、うごめき、期待に身悶えする。
指が滑って、彼女の境界を超えてしまう。虹は真っ白にかき消され、私は慌てて指を引っ込める。再び光は闇の中に消えていく。
痛かった?
彼女は答えない。ただ、疼くような図形の輝きで私を誘うだけ。私は再び、彼女の複雑な境目を測量する。
頼りになるのは、闇の中に閃く光だけ。それはある時は渦を巻いて私を飲み込み、ある時は蛸のような触手を伸ばし私を絡めとり、ある時は雷のように枝分かれしながら私を痺れさせる。
私は彼女の肌を少しずつ知っていく。彼女の肌もまた、一筋縄には行かない形をしている。美しい谷間が人を誘惑するように開いているので知らず知らず指先を這わせれば、その感触に目眩がするだろう。
彼女の肌から生えた産毛に無数の彼女の似姿がある。彼女もまた、彼女の悦楽と同様に、どんなに拡大しても再び自身と似た構造が現れる存在なのだ。
彼女をもっと知りたい。その欲望が私を駆り立てる。彼女を少しでも知ることが私の喜びとなる。
私の指が乱暴に境界を超え、彼女の中に踏み込む。痛みのような真っ白い快楽の炎がすべてをかき消す。
それはすべてを塗りつぶした後、ゆっくりと沈静化して、次第に真円となる。
真に滑らかで、真に対称的。古代ギリシャ人が宇宙を支配すると唯一認めた真の図形。彼女はやはり宇宙であったか。私の指が彼女の中心に鎮座するそれを見つけたとき、私の心は悦びで溢れ、次の瞬間にはその美しき均衡をぐじぐじと乱暴に突き崩していた。
ピエロ・デラ・フランチェスカが「モンテフェルトロ祭壇画」に描いた、またサルバドール・ダリが「ポルト・リガトの聖母」に描いた、「宇宙卵」のような円は私の指で受精して、無数に枝分かれしながら、壮大な宮殿と化していく。
そして再び自分の中に渦巻いて炎のように吹きあがったかと思うと、やせ細って木のようになってみたりする。私の指は今度は内側から彼女の境界を探るのに夢中だ。
敏感な場所を触れると、途端に鮮やかに色づきながら、ますます微細な場所へと指先を誘おうとする。本当に自分の指の粗雑さが嫌になる。もっと数学的な指が欲しい。そうすれば彼女の無数の突起のもっと細部に分け入ることができるのに。一見飛び地になっている彼女の似姿と彼女の本体をつなぐ隘路を見つけられるのに。
もどかしさのあまりにため息が出る。
だんだんと彼女の形が分かってきた。彼女の境界を大雑把にだが撫で続け、彼女を虹色に喜ばせ続けることができるようになってきた。
それでも、不意にすべてが白くなったかと思うと、すべてが闇の中に消えていく。無限に入り組んだ入江の中で急に迷子にされて、無限の驚きが私を襲う。慌てて私は彼女の境界を探す。全くなんて意地悪なんだろう。
本当は彼女自身に触れたいのに、決してそれを叶えさせてくれない。ただ壮麗な悦びを溢れさせて、私を無限の複素平面上迷わせてへとへとにさせる。
私はだんだんと理解していく。私が彼女を悦ばせるこの行為。これこそが彼女を存在させているのかもしれない。私の指が彼女を悦ばせ、それが彼女を構成していく。
実際に彼女はある種の彼女の悦びの集合として定義されるのだ。
なんて美しい存在だ。私も私の悦びの集合として定義されたい。私を調べるものが、私の中に無数の私の似姿を発見してくれたらいいのに。
歪んだ合わせ鏡に映した少しずつ変形しながら渦を巻いて私が私の中に畳み込まれていく。極彩色の景色に背筋を心地よい戦慄が走り抜け、
くしゅん
と、思わずくしゃみが出た。
冷たい風にずっと晒されていたからだろう。
あのこのように滑らかでもなく、このこのようにフラクタルでもない、いつもの美しくない体が急に意識に帰ってきた。
潮風でベタつく髪に枝毛がある。いつもならさっさととってしまうが、残しておこう。今までと反対方向を目指すのも手だ。この枝毛がさらに枝分かれして、枝毛の一つ一つに枝毛ができれば、私もあの子とは逆方向の美しさを得られるかもしれない。
とりあえず着替えよう。
風邪を引いては、せっかく一人の海の楽しみ方が分かってきたのにもったいない。