続いている公園の罠
彼は数日前にその小説を読みはじめた。休養があって一度投げ出したが、農場にもどる列車の中でふたたび手に取ってみた。物語の筋と人物描写が少しずつ彼の興味を引きはじめた。午後は代理人に手紙を書き、農場の管理人と共同経営のことを話し合った。そのあと、樫の木の公園に面した静かな書斎で本にもどった。不意に人が入ってきそうで落ち着かないので、ドアに背を向けると愛用のひじかけいすに腰をおろし、時々左手で緑のビロードを撫でながら残りの章を読みはじめた。人物のイメージや名前がまだ記憶に残っていたので、たちまち小説の架空の世界に引き込まれた。読み進むうちに、まわりの現実が遠のいていった。頭はビロードの背もたれにゆったりもたれかかり、タバコは手の届くところにある。大窓のむこうでは夕暮れの大気が樫の木の下で戯れている。罪深い楽しみを味わっているような気持に襲われた。主人公たちは男女関係がもとでジレンマにおちいっていた。夢中になってストーリーを追って行くうちに、イメージがはっきりと像を結び、色彩と動きを伴うようになった。彼は二人の人物が山小屋で最後の密会をするところに立ち会った。最初女が不安そうに入ってきた。続いて男が姿を現した。男は木の枝で顔に怪我をしていた。女は傷口を舐めて血を止めてやったが、男はじゃけんに撥ねつけた。そこへ来たのは、枯葉と小道に守られた世界で秘めやかな情熱の儀式をくり返すたねではなかった。胸のところにナイフは生温かくなり、その下では囚われた自由が息づいていた。あえぐような会話が蛇の川のように何ページにもわたって続く。すべてが宿命によって定められているように思われた。女は引きとめ、思いとどまらせようとして男を愛撫する。その愛撫までが、もう一人の男、どうしても殺さなければならないあの男の身体をいまわしく描き出していた。アリバイ、偶然、犯しかねない過ち、何ひとつ欠けていなかった。そのあと物語は少しのたるみも見せず展開して行く。無慈悲な殺人計画は、女の手が顎をやさしく愛撫する時もほとんど休みなく練りあげられた。日が暮れはじめた。
逃れることのできないつとめに縛られた二人は、小屋の戸口で別れる時も顔を見交わさなかった。女は北に抜ける小道を通るはずだった。男が逆方向の道からちらっと振り返ると、髪を乱して駆けて行く女の姿が目に入った。男は木々や生垣の間を縫うようにして走り出した。黄昏の藤色の靄の中に、あの屋敷に通じるポプラ並木が浮かび上がった。思ったとおり、犬は吼えなかったし、農場の管理人もいなかった。三段あるポーチを駆け上がると、屋敷の中に踏み込んだ。耳鳴りとともに女の言葉が聞こえてきた。中に入ると青い部屋があり、次はホール、そのむこうに絨毯を敷いた階段が見えるわ。見上げると、ドアが二つあった。最初の部屋には誰もいない、二番目の部屋にも。広間のドアが目に入った。ナイフに手がかかったのはそのときだ。大窓から光が差し込み、緑のビロードのひじかけいすの高い背もたれには、小説を読んでいる男の頭部が見え、次の瞬間残酷な刃が頭蓋骨を貫いてそこに深く突きたてられた。
声を上げることすらできず男は椅子から転げ落ち、読みかけの小説は開いていたページを下に床を少しすべった。頭から倒れたときの音は、毛足の長い群青の絨毯が吸い取ってしまった。その上にゆっくりと血が広がっていく。男の荒い息の音だけが部屋に響いていた。窓から差し込む夕陽の最後の一条が、一瞬ナイフを凄まじく輝かせた。それが男を正気に戻した。男は絨毯に埋もれた顔を少し横にして確認する。自分に何が起こったか分からず、分かる前に事切れてしまったその顔は、見知らぬものだった。男には何がなんだか分からなくなってしまった。全てうまくいくはずだったのだ。綿密に計画したことだった。間違えるはずがなかった。道順や、屋敷の構造、どの部屋がどこへ繋がっているかは、全て女から聞き出したのだ。
部屋をうろうろ歩き回る彼の足が何かを蹴飛ばした。それは半ばのページで開かれた小説だった。何も考えずに男はそれを拾い上げる。何の気なしに、開いていたページを目が走る。男はそこに女と、彼が殺すはずだった、殺さなければいけなかった男を見た。女はその男に抱かれていた。うっとりと目を閉じて。女の手が、男の胸や顎をやさしく愛撫する。
男は叫び、本を引き裂こうとした。そして思い直すと無辜の犠牲者の後頭部からナイフを引き抜き、血に染まった凶器を振り回しながら屋敷を飛び出した。犬がけたたましく吼え立てる中、あのポプラ並木を来た道順をさかさまに掛けていく。
しかし、男は女のもとにはたどり着けない。たそがれ時はとうにすぎ、公園はすでに閉じていた。
(了)
この小説にはコルタサル著木村栄一訳『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫)中の短編『続いている公園』の全文が使われています。
解説
まず、どこまでが『続いている公園』そのままなのかというと、第二段落の最後の文章の「男の頭部が」のところで、元の文章では「男の頭部が……。」で終わっている。そこからは、全て今回の付け足しである。
まず、『続いている公園』の解説から行うと、この小説はいわゆる「第四の壁」(元は演劇から来た言葉で、三方を壁に取り囲まれた舞台において、客席との間にある見えない壁のことをいう)を取り扱った小説の中で古典として扱われている。小説を読んでいる男が、その小説の登場人物によって殺されてしまうのだ。それを納得させるために、短いながらも見事なテクニックが使われている。
まず男が読書に集中していく様が描かれる。男の周りの現実から描き始め、男がそれをどう読書に適した状態にしていくかが描写される。そのうちに、男が読書に集中していくと、周りの現実が男の周りから消え始める。同時に読者の目からも自然に消えていく。そして代わりに男と読者の目の前に広がるのは、小説の中の世界である。
ここで面白いのは、この小説の中で小説を読んでいる男にとっては、この小説内小説の中の世界は男の周りの世界と全く質を異にするものなのだが、この小説を読んでいる我々読者にとっては、小説内小説を読んでいる男の周りの世界も、小説内小説の世界も、質的には同じに見える、ということだ。だから、我々はいつの間にか小説内小説が小説と入れ替わっていることに、それほど違和感を持たない。ここで描かれている「第四の壁」は所詮偽の第四の壁であるので、慎重にことを運べば安全に通り抜けられるのだ。
もちろん、違和感なく通り抜けるために、短い小説の中でゆっくりと男の周りの現実を小説内小説の現実へと入れ替えている。特に重要なのは、第一段落の終わりの「日が暮れはじめた。」という一文で、これは果たして小説内小説の外のことなのか中のことなのか、意図的に分からなくしている。これが分からないことが、通り抜けが成功した証であり、ここでパラグラフを切っていることも、通り抜けが完了したことを意味しているのだ。
そこからは、最後まで一気である。何の疑問もなく読み進めているうちに、最後の文章で読者は見覚えのある緑のビロードのひじかけいすに腰掛けた男を見て、驚愕する。この男はこの小説を読んでいた男のはずだ、と。
最後が途切れてしまっているのはなぜだろうか。それは我々読者が読んでいるこの文章は、この小説の中の男が小説を読んでいることの描写なので、男が死んでしまった以上、その描写もここで途切れなくてはいけないのだ。
この小説と良く似た構造を持っている作品として、エッシャーの『とかげ』がある。
##img##
ここでも、絵の中で絵を描くことによって、偽の「第四の壁」を作り出し、それをすこしずつ変化する慎重な描写で乗り越えて見せたのだ。ちなみにこのような「本来越えられるはずのない層の間を仮想的に行き来する現象」を扱った本がダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』であり、古今の様々な例や創作による例示が収録されている。
そこから私はこの小説を、「騙し絵小説」と呼ぶことにしている。私自身、いくつかの作例(「騙し絵小説とは何か考えてみた」というエントリーを私のブログで検索してくれれば見つかる)を持っていて、知り合いに挿絵を描いてもらったので、近いうちに本の形にしたいと思っている。
これはこれでとても趣のあるものだが、もっと本格的に第四の壁を乗り越えたいと思っているデッド・プールな人たちには、フレドリック・ブラウンの『真っ白な嘘』という短編集を読んでほしい。これまた奇妙な読書体験が待っていることを確約しよう。
さて、ようやくこの小説自体を解説する準備が整った。
なにゆえ、この完成された作品を汚してまで、このすでに小説が多すぎる世に、余分の小説を垂れ流そうというのか。
私にとって批評とは、作品の「ありえる姿、ありえたかもしれない姿、絶対にありえない姿」などを描き出す行為だ。読むことと、書くことは不可分なのだ。読んでいるとき、あなたは書いている。特に作品に疑問点が見つかったときは、それはあなたが筆を取るべきときだ。
まず疑問に思ったのが、この小説内小説の男は間違った男を殺しているのではないか、ということだ。もちろん何も書かれていないだけで、この小説を読んでいる男が、他人の恋人を農場主という権力を使って手篭めにしたり、誘惑したりしている可能性もある。しかしそれならば、この小説内小説の登場人物として、この小説には書かれていないだけで彼がいるはずで、それならば読んでいるうちに気付いてもよさそうなものだ。自分が今読んでいる小説が、彼にとっての現実だと。そうでないとすれば、やはり男は間違った男を殺したと考えたほうが筋が通るような気がした。
そこで、この小説に蛇足と知りながら続きを書くために、私はサクラエディタを開いて、文庫本に重しを乗せて開きっぱなしにしながら、一言一句丸写しにしていったのだ。
そのとき、何かが見えたのだ。
その段階まで私は、なぜ男が間違った相手を殺してしまったのか、分からないでいた。
しかし、「耳鳴りとともに女の言葉が聞こえてきた。中に入ると青い部屋があり、次はホール、そのむこうに絨毯を敷いた階段が見えるわ。」という部分を写していたとき、今まで漫然と読んでいたときには気付かなかった真相が啓示されたのだ。男は女に男の居場所を教えてもらっている。ならば男を騙したのは女だ。
コルタサル本人ですら、この真相には辿りつけなかったのではなかろうか。作者であることが、真相へと近づくための障害になることがありえるのだ。全ての作品には、作者すら知らない無数の伏線が張られており、それを発見することが、読者が次の作者へと変貌することに繋がるのだ。そして作者となった者にとっては、書くことこそが、より深く読むことへの近道になりうる。
このように、作者すら気付いていない真相を探すことを批評のスタイルとする者にピエール・バイヤールがいる。彼は『アクロイドを殺したのは誰か』や『シャーロック・ホームズの誤謬』などで、有名な探偵小説の推理を間違いだと断じ、真犯人を突き止めたと主張している。頭を柔らかくするためのひとつの試みとして、一度読んでみることをお勧めする。
ここまでくれば、あとは一気呵成に書くだけだ。最後に男が小説内小説の世界から小説の中に出てしまって帰れないことを説明する必要があったが、ここでもちょっとしたことに気付いた。
夕暮れ時、という時間設定は面白いな。
最初は、小説の世界から小説内小説の世界へと描写の主軸が完全に移ったことを表すためだけに使われていると思ったのだが、現実とフィクションが混ざる幻想的な時間として「たそがれどき」というのは実に相応しい時分であることに気付いたのだ。
ならば、完全に日が暮れてしまったとき、男は帰り道を失うかもしれない。続いている公園が夜になって閉じてしまえば、もう帰ることは出来ないかもしれない。
もちろん、無茶苦茶な論理である。しかし、「たそがれどき」というイメージが我々にもたらす特殊な効果は、そんな無茶苦茶な論理に説得力を与えるだけの力を今でも持っているのではないか、そう信じてみたくなったのだ(技術のないことに関する言い訳)。
成功かどうかは皆さんが判定してくださいな。