淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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Πάντα ῥεῖ

発掘都市

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発掘都市

 深い深い谷底という、幾分陰気な場所にあるその街の第一印象は、街の中心部にそびえたつ高層建築群であった。遠目には目測が立てにくく、どれほど高いのかよく分からなかったが、郊外のせいぜい二階建て、高くて三階建ての家々と比べれば、摩天楼と言ってよいほどの高さだと分かる。しかし、それほどの高さを誇っても、天を突き刺さんとするその切っ先は、谷へとなだれ込む切り立った崖にすら届かず、逆に谷の深さを際立たせる視覚効果しか持っていない。あのような中途半端なものだったら作らなければいいのに、とまず思ったのだ。街から風が吹くと、大量の砂埃が目を痛め、ビルの頂上は、まるで骨組みだけで出来ているように霞んでしまう。

 そのような重たい印象を持って街の中に入ってまず驚いたのが、案に相違して非常に活気にあふれていることだった。決して広くない通りは、張り出した露店に圧迫されまっすぐ歩けないほど細くねじくれ、その唐草文様めいた隙間に、地元の民と行商人と観光客がぎゅうぎゅうに詰められて、身動きすらできずただ流されていくほかない。その自分がどこに向かっているのかも分からない哀れな群衆に向かって、隣の人間と会話もできないほどの喧しい売り子の呼び声。気を付けていないと彼らの突き出した手に首根っこを掴まれて、店の中に引きずりこまれてしまいそうだ。しかし、店の中のほうが、まだ他人の背中や荷物に胸を押さえつけられずに呼吸ができるだけましだ、という意見にも一理ある。店主のお世辞交じりの売り文句と次々出される面妖な品物をさらりと受け流し続ける胆力があれば、十分考察に値する選択だ。私は適当に選んだ一つにとりあえず飛び込んで、人心地付くことができた。そして軒下から通りを振り返って、街の活況に改めて驚いていたとき、私は奇妙な違和感を覚えた。いや、ずっと違和感を覚えていたことに気付いた、というべきか。意識に昇ってこない程度のかすかな不一致。それは臭いだった。意識に強く訴える視覚と聴覚はここが栄えた街であると主張しているにもかかわらず、無意識裡に働きかけてくる嗅覚は屋台で売られている揚げ物の油の臭いの陰に、この場に不似合いな土の臭いを感じ取っていたのだ。しかし、それだけだろうか。違和感の正体は。何か余分なものとしては、土の匂いで正解だろう。しかし、この街には逆に何かが足らないのではなかろうか。それは何か。私の考えは、その謎を中心にさまよいながら、時々寄り道し、この街ではどんな料理を出すのか、どんな酒を出すのだろうかが気になり始めている。

 さて、土産物屋に入って、夕餉に何を食べるかばかり考えているのも少々つまらない。さも興味がありげに品物を物色してやったほうが、店主も張り合いが出る。それで結局買わないのは、店主が可哀そうだと見る向きもあろうが、それも彼らの業務内容の一つだ、とだけ言っておこう。

 かくのごとき理由で、正体不明の物品をためつすがめつし始めた私だが、なかなかどうして面白い。聞いてみると、どうやらこの街がこれほど潤っている理由は、何十年と続いている遺跡の発掘作業によるものらしい。初老の店主はそんなことも知らずにこの街を訪れてしまった私に若干呆れながら、これらの品々は、発掘品の中から特に選りすぐりのものだと、太鼓判を押す。聞けば、たくさんの学術調査団も常駐しているというそんな発掘現場から、こんな「救世主ご生誕の砌の頭蓋骨、元服の砌の頭蓋骨、昇天の砌の頭蓋骨、三点セットで格安」などという怪しい店に貴重なものが流れてくるはずがなかろうと思うが、偽物でも本物に似ているから偽物なのであって、こんなもので、眺めていれば多少の予習にでもなる。私は、偶然立ち寄った街で、興味深い見物に出会える僥倖に浮足立つのを我慢しながら、わざとらしく黄ばませたりやすりで傷をつけたりした、その安い模造品を見分する。見れば、それはたくさんの歯車を組み合わせた科学革命初期の計算機めいた装置で、質の低い土産物でこれなら、本物はさぞ緻密なものなのだろうと思わせた。この機械自身は動かないが、歯車が動けば折れたいくつかの針が同期して動く仕組みは、時計を思わせる。時計にしては針が多いので、おそらく地中海の海底から見つかったものと同種のアストロラーベに違いない。

 試しに私は、店主にこれは何に使うもので、何年前の遺物なのか、と問いただす。が、一つ目の質問には「さあ、使ってみないことには、わかりませんな。どのみち、そのうちわかることですが」とはぐらかしたような答え。二つ目の質問には、そもそも意味が分からない、という顔をされた。私の旅人語が早口過ぎたのか、観光地の土産物屋の店主にあるまじきことに旅人語の聞き取りが悪いのか。私が「これを作ったのは、誰なのだ」と質問の仕方を変えると、店主は「さあ、地面の中にもともとあったものでさあ」と冗談のような答えが返ってきて、業を煮やした私は、引き留める店主の言葉を背に店を出ようとする。そのとき、店の出入り口付近でふと目についた観光客用の街の地図だけはせめて買っていってやろうと、私は財布をまさぐった。

 地図を斜め読みして驚いたことに、この街は遺跡だらけ、発掘現場だらけなのだ。街の通りを少し横にそれれば、現在進行で掘り返されている穴にぶち当たらないことのないこと、漁港で石を投げれば猫に当たらないことのないごとしだ。遺跡の発掘現場の上に家を作り街を作っているようなものだ。人々の仕事も、役人や商人を除けば、みな発掘関係だ。このような土地では、土を掘り繰り返せば何かが出てきてしまうため、ろくに農業もできないのだろう。食べ物は主に輸入に頼っているらしい。

 地図を頼りに発掘現場を渡り歩いていると、皆旅人語をよく解す。どんな観光地でも、観光客相手の商人や行政の人間以外は、意外と旅人語に堪能でなかったりする者が多いなか、これは快適である。

 私が立ち寄った一つの発掘現場では、今まさに土の中から、建物が掘り出されようとしていた。このような場合、大概は土台の跡が、洪水などで埋まって土の色が違うだけ、というもののような気がするが、私の目の前で繰り広げられようとしていた驚くべき光景は、完全で、壁に刻まれた飾り模様まで残った一つの建物が、少しずつその全容を日の光のもとに曝け出そうとするものだった。現地人がそれを見ながら、何やらああだこうだと議論している。その一人に質問したところ親切に、あの建物がなんなのかを話し合っているとのことだ。おおむね、商店であろうと、結論が出はじめているのだそうだ。なんでも、このあたりから出てくる建物は、大抵商店なのだ、と。

 興味を覚えた私は、その男に、「と、いうことは、この辺りは、今そうであるように、かつても商店の立ち並ぶ通りだった、ということだろうか」

 と聞いてみる。しかし、先ほどまで、あれほど完全な理解を私の旅人語に示していたその男が、突然私の言おうとしていることが分からない、という顔になり、

 「さあ。これからもしばらくはそうであり続けることは確かだろうけどな」

 と私の質問とは関係のないことを答えるのだった。

 ここの住人は少し変だ、と思いながらも、ただ単にまだここの風習について私が無理解なだけだと、それ以上の疑問を感じるのをやめた私は、何とか発掘現場の中にまで入ることができないかと、思い始めていた。

 しかし、たとえ観光地であっても、発掘は商業的に開放されているわけではないらしく、見物客の気楽な調子と対照的に、地面を掘り返し標本から土をこそげ落としている人々の様子は生真面目そのもの、荘厳な雰囲気すら漂っている。ここに紛れ込むことは難しそうだ。

 そう思い始めた私は、そろそろ今日の宿を探さなくては、と踵を返そうとする。その時になって、初めて、主に屈強な男たちで構成されている警備員の中に、無造作に結ばれた後ろ髪のかかった華奢な肩に気が付いた。この土地の者の髪色は概して薄い中で、その髪が私の祖国では当たり前の黒髪、それも夜のように美しいものだったのが、深く心に刻まれた。現場をあちこちと見回りながら、手元の紙束を時々読んで、レスラーのように肩幅の広い警備員たちに、事細かそうな命令を与えている。どうやらそこそこ責任のある役職らしい。他より頭一つ低い場所にあるヘルメットに、他のヘルメットがぺこぺこと縦に揺れる。

 その凛々しい姿に弾指ほど見とれていた後、俄かになんの根拠もない勇気を胸中にわき立たせた私は、彼女に話しかけていた。

 「僕は物書きで、この街について書こうと取材しに来たんだけど、どうにか発掘現場を見せてもらえないかな」

 私の半分嘘で半分本当な話に彼女は生粋の旅人のような流暢な旅人語で答えてくれた。先ほど、部下に指示を与えていた言葉は現地語の咳をするかのような耳障りな喉音も相まって、攻撃的な響きを持っていたが、街の客である私への返答は、水滴の飾りのついた細い蜘蛛の糸を、波紋を作らずに水面を押すような繊細な指で弾いたような優美な響きが微かに後を引くようで、ただ単に外向けの声なだけだと白ける理性を圧して、私の胸は高鳴った。

 「行政府の許可は貰ってきましたか」

 馬鹿丁寧な返答のそっけない内容が脳で処理され始めたのは、どのくらい時間がたってからだったろうか。

 「貰ってないが、それはどのくらい時間がかかるのか」

 私は、彼女と会話を続けるためだけに、話を引き延ばし始めていた。

 「発掘現場への訪問は、非常に人気があるし、他の街から訪れた要人が優先的に通されるので、ふつう一週間は待ってもらうと考えてほしい」

 「それは困る」

 私は本当に困っているという顔で言う。

 「実はこの街にそれほど長く滞在できないんだ。すぐに次の街へ行かなくてはいけない。何とか君の権限で少しだけ中に入れては貰えないだろうか」

 「そんな権限は私にはない」

 私たちは、ここの住人がみな旅人語が分かるので、あまり人のいない区画に行って小声で話した。彼女の化粧の薄い顔が、間近くから私を非難めいた鋭い目つきで睨んでいるのも、悪くない。

 「そこを何とか。何かを触ったりしないし、写真も撮らない。ただ目で見て耳で聞いて、それを書き取るだけだ。もちろん行政に申請はするし、記事の許可もとる。記事のもとになった取材は申請が通った後にしたことにすればいいし、もし問題になっても、決してあなたのことは出さない」

 「一応私はここの警備担当の責任者で、だからその現場で誰かが無許可で侵入したら、それだけで私の責任になる」

 ここまでか、短い間だったが得難い体験だった、と思って引き下がろうとしたとき、思わぬところから救いの手が降りてきた。

 「どうしたの」

 発掘現場から白髪交じりの髭に土埃を付けた男がこちらに向かってきた。顔つきから現地人でないことが知れ、より若い学生たちの中から現れたことから、彼らを指揮する学者であると予想される。

 「この人が取材だって主張して、無許可で現場に入ろうとしていて」

 先ほどの私への返答よりかなりフランクな言葉づかいで彼女がその男に説明しようとする。

 「ふうん取材。いったいどこの。へえ、個人で」

 聞いたことのある訛りの旅人語だ。世界中で教えられている旅人語だが、いくつかの流儀がある。中には一つの大学で一つの訛りを受け継ぎ続けているようなところもある。すでに伝統が伝統であることに価値を見出しているのだ。彼らは同じ訛りの旅人語を使うことに同族意識を持ち、同じ母語を持つ同士でも、旅人語で会話したりするのだ。

 「おや? あなたもミスカトニック大学の卒業生ですか」

 私は、依然練習した彼らの訛りを懸命に思い出しながら、そう彼に語りかける。途端に彼の表情が変わった。

 「もちろんそうだが、そういうあんたもかね。あんたは何年卒で、どのフラタニティに所属していたのかね」

 矢継ぎ早の質問に当たり障りのない答えを返すことは難しかった。特にフラタニティについては、間違っても同じフラットに所属していることになってしまったら、話を合わせ続けるのが事実上不可能になるだろうから、絶対に重ならず、さりとて存在を疑われるほど無名でもないものを選ばなければいけなかった。長い旅路で何回も潜り抜けた、身分を偽ったり、自分ではない誰かを騙ったりした経験がここでも生きた。その教授、名をハイエダと言ったが、彼はすっかり納得しきってしまったようで、私が取材をしようとする物書きであることも、完全に信用してくれたようだ。

 「入れてあげたら、トワイちゃん」

 ハイエダ教授は彼女のことをかなり気安い調子でそう呼び、それによって私も初めて彼女の名前を知る。胸につけていた名札は現地語表記だけで読み方が分からなかった。

 「でも教授」

 「いいじゃん。僕が責任持つよ。個人的に受け入れたんだけど、行政府に申請を出すのが遅れてしまったってことにするから。大丈夫だって」

 結局押し切られてしまって、あれよあれよという間に、私は関係者以外立ち入り禁止のロープをくぐることになってしまった。

 しかも相変わらず私を信用していない彼女が、私が問題を起こさないように見張り続けるというおまけまでついた。何たる幸運であろうか。

 私はハイエダ教授の案内とトワイのエスコートの下、今まさに、様々な隠された文物が発見されているのを見て回った。あの歯車機械の本物にもお目にかかった。やはり、紛い物とはまったく違う、本物の雰囲気というものに驚かされたが、背中に服が焦げそうなほどの視線を感じるので、触るのは良しにしておいた。もしその取っ手に触れることを許されていれば、それは私の手の中でスムーズに動き出し、予想もしないことをしでかし始めるはずだった。それが天体観測用具だという当初の考えも、今やだんだん信じられなくなり始めた。器具の横に出来ている溝は、もしや電子的な情報のポートではなかろうか。土を取り除いてやれば、この器具の側面が薄いガラスでできていることが分かるかもしれない。すると中に入っているのは歯車などではなく、電子部品ではないのか。

 日が暮れようとしていた。街の中から見ると、太陽は切り立った崖に挟まれて、小さく区切られた地平線に沈んでいく。発掘も一区切りだ。まだ宿の定まっていないことを聞いたハイエダ教授は、おすすめのホテルまで手配してくれて、街の繁華街へと私を誘った。トワイも誘うと、今日中に片づけておきたい書類があるとしばらくは零していたが、ハイエダ教授も私の側に参戦するに当たって、結局は折れてしまった。

 教授の車で街の中心部に向かう。あの遠景から眺めたビル群だ。夜になって、窓には幾多の明かりが付く。こんな辺鄙な場所に、このような都会があったとは驚いた。旅人冥利に尽きる経験だ、と感慨に耽っているとき、また不思議なことに気付く。あれだけ高い建物なのに、明かりが付いているのは下層階ばかりで、上のほうはひっそりとして暗く、人の活動の気配が感じられない。教授にそのことについて質問すると、ただ「この街の習慣なんだ」とだけ答え、後部座席のトワイに聞こえないように、「この街の人々は、たとえ学者であってもよそ者には決して教えてくれないことがあるんだ。取材するときも気をつけたまえ」と小声で囁いた。この一日だけでも、思い当たることがいくつかある。

 我々三人は、駐車場に車を止めて、その近くにあるバーへと歩き出した。歩きながら、私は何とか彼女との会話の糸口を見つけようとしていた。一度蹴躓くふりをして、彼女の髪が頬に触れるところまで近づいてみた。いい匂いがすると思ったのだが、したのは土の臭いだけだった。三人とも現場を出るときにシャワーを浴びたはずなのに。そういえば、こんな街の中心部なのに、あの土の臭いは相変わらず漂っていた。それどころか、強くすらなっていたかもしれない。

 教授お気に入りの小洒落たバーについては特に語ることはない。実に小洒落ていた。トワイは酒が入ると急に陽気になって、仕事の愚痴や最近見た映画、最近読んだ小説についていろいろと話した。当初の見立ての通り、頭の良い女だった。最初は相変わらず不信感丸出しで、私が取材でここに来たということも、正当にも疑って掛かっていたが、私が今まで訪れた様々な街のことを虚実織り交ぜて語っているうちに、だんだん私の話にのめりこんできていることが分かった。

 都市全体が碁盤の目状になっていて、その中の一つが空白になっており、毎夜その空白の区画が一つずつ動いていく古都。空白の区画は人々の認知の網の目を潜り抜けてしまうので、誰もそこがどこなのか分からないし、その真横を通っていても決して気づくことはないが、縦横の通りの数と区画の数を数えてみれば、それが実在することが分かる。そして毎夜毎夜、検非違使と呼ばれる古の戦士と異形の化け物の亡霊が、その場所を探して戦いを繰り広げる。また別の都市では、地下街が縦横無碍複雑怪奇に発展した末に独立した生命となってしまった。普通の生命体が空間を地とし物質を図とするのに対し、物質で出来た大地を地とし空間を図とする生命体。毎日少しずつ成長し、誰も知らない区画がいつの間にかできている。人々は商売のチャンスと、こぞってそこに出店しようとする。一つの空間が成長しきると、空間は分裂して、新しい地下街ができる。もし、まったく地上と接続されていない地下街ができれば、そこにいた人々はそこに閉じ込められてしまう。かつて何十年も地上と連絡せずに成長を続けた地下街が発見されたことがあったが、閉じ込められた人々は土竜を食べて土竜のように生きていたので、何十年ぶり、もしくは生まれて初めて出た地上で目を開けていることができなかったという。今でももしかしたら、あの街の地下には、地上と隔絶した地下街がひっそりと息づいているのかもしれない。人々は自分たちと重なりあいながら共存するこの奇妙な生命体に、不思議な愛着を感じているらしい。以前、一つの地下街が地上に近づき過ぎて、崩落を起こして死んでしまったときは、何人もの死者を出した街の被害よりも、彼らはその意思疎通の困難な同居者の死を悼んだのだ。

 ハイエダ教授も、私に負けまいと、奇談怪談を繰り広げた。どれも耳に新しく面白いもので、この街を離れたらさっそく使わせてもらおうと思うものばかりだったが、語り口の差で、私のほうがトワイの心を掴んでいた。普通なら、相手の顔色を見ながらあまり難しい話は控えるのだが、彼女は意識が高く、知識に飢えていた。酒が回り、舌も回った。かたりの中で私は、どの街でも秘密を探り、そのすべてで秘密を見事探り当てることができたのだ。偽物の訛りはとっくの昔に吹き飛んでいたが、ハイエダ教授も気づくことはなかったろう。私が彼女の視線が熱っぽいものに変わっていることに確信を深めるころには、教授はスコッチのグラスに手を添えたまま、うつらうつらと頭を垂れていた。代行運転業者を呼んで、教授を後部座席に詰め込むと、教授が言っていたホテルの場所をおぼろげに思い出しながら、我々は彼女のためにタクシーを捕まえるまでの短い間共に夜の街を歩きだした。次第に、この街から、そして彼女の髪から漂う拭いきれない土の匂いが好きになり始めていた。

 次の日も、私は教授の案内で、発掘現場を見せてもらっていた。さすがに昼間は懸命に訛りを真似ながら、ぼろを出さないように神経を使わなければいけなかった。今日はさすがにトワイはついてこなかった。仕事が大変なのだろう。本当はもっとほかの仕事がしたいのではないだろうか、と思っていたら、教授曰く、彼女は行政府からキャリア教育のために派遣されて来ていて、既定の時期が過ぎたらもっと高度な仕事に配属されるだろう、とのことだ。エリートというわけだ。

 そんなことから、この街の行政府の話になった。ハイエダ教授は、トワイ個人はともかく、行政府に対して良い印象を持っていないようだった。

 「彼らにとって我々は単なる発掘の手伝いと、遺跡に箔を付けて、宣伝するための道具でしかない。発掘品の管理はすべて彼らが行って、我々が写真やレプリカではなく、本物に触る機会はほとんどない。土の中から我々が我々の手で取り上げた途端、彼らがそれを取り上げてしまうんだ」

 「研究の進展はどうなんですか」

 「そんな状態で進むはずがなかろう。遺跡どころか、我々はこの街の中だってすべて見て回れるわけではないのだ。昨日君が言っていたビルの上のほうがなぜ暗いかだがな、私だってなぜか知らないのだ。よそ者は立ち入り禁止だからな。もう4年もこの街にいるのに。そして来年は5年目だ」

 教授は、今までの明るい態度は仮面だったというように、私に弱音を吐き始めた。学生の前でも、見せない姿だったのではなかろうか。それほど私を信用しているのだと考えると、珍しく私にも罪悪感が芽生えてきそうになるのだった。

 「この街にはなんと滞在制限がある。一生に渡ってのだ。5年。たったの5年だ。その5年が経てば、私は二度とこの街への滞在資格を得ることができないのだ。その5年の間に何らかの結果を残さなくてはいけなかったのに。なのに私がこの街で得たものといえばなんだ。なんに使うのかもわからないがらくたと、中身に何が入ってるのか調べさせてももらえないたくさんの甕じゃないか」

 「甕、ですか」

 私がさらに質問しようとしたとき、発掘現場のほうで歓声が上がった。独特の叫び声から、地元民の声ばかりだと分かる。

 「あれがまた見つかったんだよ。あれが」

 ハイエダ教授が力なくつぶやく。

 見れば、外国人の学生たちを押しのけて、地元の人間たちが人だかりを作っている。その真ん中には、今丁度地面の中から掘り出されている、大体人一人分のサイズの甕が幾つも転がっていた。私は、東方の体を折り曲げて入れる棺桶を思い出した。すると、なぜだかまたあの土の匂いが脳裏に充満して、世界が泥になったような気分になるのだった。

 「街の人々が、なぜあれの発見をあれほど喜ぶのかすら、我々には分からない」

 私の横に立ったハイエダ教授がささやいた。

 私が振り向くと、教授の目つきが変わっていた。

 「トワイに気をつけたまえ。彼女はとてもいい女性だが、それでも行政府から監視のために派遣されていることには変わらない。彼女たちは街の人々から発掘現場を守っているわけではなく、我々から発掘現場を守っているんだ」

 その目は何かを確信し、何かを決心した目だった。

 「そしてこの街に気をつけたまえ。この街には秘密がある」

 そして突然、その目つきのまま、私を見た。

 「君、子どもを見たかい」

 突然の問いかけに、俄かには答えられない。

 「私は見ていない。学校もない」

 そういえばそうだ。私が感じていた違和感のもう一つの正体は、おそらくそれだ。この街に欠けているもの。

 「一体子どもたちはどこなんだ。どこに隠しているんだ」

 教授はぶつぶつつぶやきながらその場を歩き回り始めた。自分の心の中に深く沈んでいきながら。ふと見れば、発掘された商店は一日の間に驚くほど、その全貌を現していた。コンクリートで固められた剛直な外観に、採光について完璧に考え抜かれた大きな窓、排水設備も完備され、まさかとは思うが、電気設備の存在すら伺わせる。こべりついていた土をこそげ落としてしまえば、昨日まで土の中に埋もれていたとは思えないほどきれいで、今日からでも人が住めそうだ。それどころか、今通りに建っている木造の家屋よりも、現代的で機能的に見える。それが何を意味しているのかは、学者ではない私には知りようもなかった。

 その日も、私はトワイを仕事の終わりに連れ出そうとしたが、教授はその時にはもうどこにも見つからなかった。学生たちに聞いても、ずっと見ていないという。仕方がないので、その手の店をあまり知らない堅物と昨日着いたばかりの旅行者が行くあてもなく、夜の街をさまよいだしたのである。

 次の朝、私はトワイと歩いていると、あの最初にあの土産物屋が閉じられているのを見つけた。その店だけではない。その周りの家々すべてにロープが張られ、立ち入りを禁じられている。一体どうしたのか、と思ってトワイに訊くと、区画一つ向こうの現場の発掘が終わったので、次はここだ、という。すでに建っている建物を壊してまで、遺跡を発掘するなんて乱暴な、と思ったが、トワイは、「昔からそうしてきた」とそっけない。こんなことをしていたら、街中を掘り返すことになってしまうような気がするのだが、といらぬお節介をしていたら、あまりのしつこさにトワイは、そのおかげで古い建築物が壊されて、通りも住宅設備もどんどん新しいものになって行っていると、少し不機嫌になりながら言った。そう考えてみればその通りかもしれない。今から壊されようとしている商店と同じような古い家は、すでに少数派となっていこうとしていた。空調施設なども完備した現代的な家屋がどんどん多くなっていく。妙に坂の多いこの街の通りを歩きながら、それらの家々を眺めていると、私は突然の眩暈を感じた。既視感とでも言うのか。何か別の景色と目の前の景色が重なって、すべてのものが頭を揺さぶられているように二重化して見える。足元もおぼつかないそんな私にトワイは気づきもせず、手元の携帯端末を弄っている。経済発展によって古風な装いを急激に改めようとしているこの街にも、ようやく普及し始めた先進技術。そのガラスの画面で見ているのは、初めて輸入ではなく、この街で作られるという来年発売される新機種の発表会見の動画だ。別にけばけばしかったり動きが激しかったりするわけではないその映像もまた、私の脳をぐらぐらと、横波に煽られた船のように揺さぶるのだった。

 ようやく私の様子に気づいたトワイに少しだけ心配されながら、吐き気をこらえて発掘現場まで歩くと、そこでも何やら事件が巻き起こっているようだった。

 教授が消えたらしい。そして昨日発掘された甕の一つも。トワイが真っ青になって走って行って、状況把握に努めている。私は動き回る小さな肩を眺めながら、その場を誰にも見られないように静かに立ち去った。すぐに私の立場も非常に危うくなる。別れの挨拶も言えないのは残念だが、今日のうちにこの街を去ったほうが身のためだろう。

 私は、ホテルの部屋に帰って荷物をまとめようとしていた。あとはチェックアウトするばかり、というとき、私にメッセージが届いているという。差出人の名前も何もない。封筒を破いて、中身を見れば、繁華街から奥まった、まだ行っていない場所が指定されている。私はトラブルと好奇心を秤にかけた。その結果、手紙を灰皿の上で燃やすと、あまり多いわけではない荷物を担ぎなおして、ホテルに鍵を返したのだった。

 そこは、普通の場所だった。いくつもの高いビルが立ち上り、行政府の人間が足早に歩き回っている。私はてっきり、官憲の目の届かないスラム街か何かに連れて行かれると思って、期待していたのに。しかし逆に、本当にここに潜伏しているとしたら、その奇抜さと肝っ玉に感心するほかない。灯台下暗しというわけだ。

 私は、遺跡の見学の申請に来た旅行客を装って、職員に道を聞きながら、建物の中で、手紙が指定していた場所へ向かおうとする。半分嘘で半分本当というのが、いつだって私のやり方だ。良い感じに不特定多数の人にあふれていて、目立たずにいられる。おそらく、まだ私を必死に探したりはし始めていないのだろう。時間はあまりない。その時間がない中で、私はその群衆に紛れこみながら、やはり観光客以外に子どもがいないことを確認する。しかし、それだけではない。この街には老人もほとんどいないらしい。ここに向かうまでに地図を確認したが、確かに学校はない。それだけでなく、墓地もないことに気づいたのだ。この街には何かある。大プリニウスの精神的末裔のすべきことは一つだ。

 とは言っても、一階のフロア以外は、外部の人間は入れないらしい。そもそも階段が見当たらない。非常用のものが一つはあるはずなのだが、見たところ上へ行くためには職員専用のエレベータを使うしかないようだ。それほど進んだ警備がなされているわけではないが、入口をこうも狭められたら、人目につかずに行くのは非常に難しい。

 私は、少し広めの男女共用多目的トイレに入って鍵を開けたままにすると、入ってもすぐには見えない場所に身をひそめ、隠しポケットから旅路で森の中を歩いているときなどに追いはぎにあったり追いはぎをしたりするときに重宝している、黒曜石のナイフを取り出す。金属探知にも引っかからないし、見つかっても綺麗な石のコレクションだとでも言っておけばいいが、これがなかなかどうして肉を掻っ捌くのにはよい切れ味なのだ。

 障碍者用のトイレだが、障碍者が使うよりも、他の個室が満員で使う健常者のほうが多い。運の悪い人に、少し手伝ってもらおう。

 しばらく待っていると、静かにドアが開く。ドアが閉じられ、鍵が閉まるのを待って、後ろから口を押え、喉元にひんやりした切っ先を突き付けてやる。

 「動くな声を上げるな。このナイフは半分嘘だが半分本当で出来ているから、ちゃんと切れるし、切られた人はちゃんと死ぬ。言うことを聞いていれば、悪くはしない」

 覚えのある匂いがした。近くで見ると漆黒ではなくまるで黄昏の空のようにわずかに色が薄いことに昨夜気づいた髪。私の腕の中でもがいている運の悪い人はトワイだった。

 「あなた、ここでいったい何を……」

 叫びだそうとするその口を、もう一度手でふさぎ、頼むから静かにしてくれと、身振り手振りで示す。さすがに彼女をナイフで脅し続けるわけにはいかない。こういう類の人間には逆効果だ。

 「ハイエダ教授は見つかったかい」

 その質問に、トワイの紫色の瞳が丸く大きく見開かれた。その表情を見て、私はその後の行動方針を決める。

 「彼から連絡があったんだ」

 「教授はどこにいるの」

 「声が大きいよ。それはまだ、分からない。でも、このビルの上に来い、って手紙には書いてあった」

 その言葉にトワイの顔が凍りつく。やはり、部外者を入れるには相当まずい場所なのだろう。

 「教授が心配じゃないのかい」

 心配なのだろう。それが分かっているから、私もそう訊くのだ。

 「私が探しに行く。あなたは下で待っていて」

 是が非でも、私を排除しようとしている。しかし、これくらいで引き下がる私でもない。

 「それはだめだね。残念ながら、教授は君を信用していない。君を行政府から派遣された監視役だと、正当にも疑ってかかっている。それと比べると僕なんかは、気がいいもんだから、君をまるっきり信用してこんなことまで話しているというわけだ。そして教授は、そんな気がいい僕を信用している。分かるかい」

 トワイは真剣な表情でうなずく。今なら、パンツのゴム紐だって売りつけられそうだ。

 「もし君が、君の上司から命じられた命令を執行したいだけなら、僕は連れて行く必要はないよね。行く、撃つ、消す。大石で卵を砕くくらい簡単さ。念のために説明しておくと、ここでいう大石は非常な公権力で、卵は哀れなハイエダ教授さ。でも、もし君に、ほんの少しでも、優しさというのが残っていればさ、ね、わかるだろ、ほんの少しでいいんだ、少し違うやり方でことに当たろうと考えるんじゃないかな、と僕は考えるんだ。そしたらさ、この僕が必要になるんじゃないかなあ。ね、ダーリン、分かるだろ」

 少しわざとらしすぎたか、と心配になったが、私の言葉はちゃんと効果を発しているらしい。控えめになるよりは、少し演技過剰なほうが成功する確率は高いのだ。

 「分かった。教授はいい人だから、できることなら穏便に済ませたい。もう、この街にいることはできないけど。あなたもよ。あなたいったい何者なの。もしかしてスパイ」

 「スパイだって。僕の知る限り、スパイの副業はしたことないなあ」

 「結局、取材に来た物書きだってのは嘘だったの」

 「物は書いてるよ、ちゃんと」

 「いろいろな街の話はどうなの。あれも嘘なの」

 「さあて、どこからどこまでが本当で、どこからどこまでが嘘だったのかなんて、その街を歩いている最中から、どっちがどっちだか分からなくなっちゃう質でね。この秘密を持った奇妙な街で、美しいキャリアウーマンとトイレで二人きりでいることだって、果たして嘘なのか本当なのか」

 「何を聞いても無駄、というわけね。仕方ない。少しだけ協力関係を築く。そして、教授を助ける。そうしたら、教授とあなたは街を追放されて、二度とここには帰ってこれないし、私もあなたのことを二度と思い出さない。これでいい」

 「何の問題もない」

 「じゃあ、先に外に出て、ちょっと待ってて」

 私は、何を言われているのかわからない、という顔で聞き返す。

 「なんで。一緒に来ないの」

 トワイは怪訝な面持ちで私の顔を見つめる。自慢じゃないが私は、この女性の怪訝な表情というものに、実は一家言持っているのだ。

 「あなた、なんで私がここに入ってきたか、考えたりしないの」

 私は昼なお暗い森の奥で鮮やかなぱっと花が咲いたような、夜空に色とりどりの花火が舞い散ったような、それどころかたとえ言葉の職人が彫心鏤骨した千言万言の比喩を持ってしても喩えきれない笑顔で、即答する。

 「しない」

 蹴られた。

 トワイは、私を、職員のIDカードでしか入れない非常階段に連れ込んだ。

 「監視カメラは一応あるけど、いつも見ているわけじゃないから、ここを登っていきましょう」

 灯りもほとんどつかない薄暗い四角柱をカツカツと靴音を立てながら登っていくとき、ふと心配になった。

 「この階段はめったに使われないのか」

 「うん、エレベータがあるからね。でも、一階だけ下に行くときに、エレベータが来るのを待てない人は、使うことがあるかな」

 「そうすると、ここにはどこにも隠れる場所がないように見えるんだけど」

 「大丈夫、ちゃんと考えてある」

 トワイは自信ありげな顔で断言する。

 「その時は、今回の事件の重要参考人であるあなたを、連行していることにする」

 「なるほど。で、そのあとどうするの」

 「そのまま、連行するに決まってるじゃない」

 私は階段を踏み外しそうになった。

 「それじゃ、僕はどうなるんでしょうかねえ」

 「だって、もともとそういう予定だったんだもの。もし可能ならば、あなたも教授も助けたいけど、それが無理なら行政府の上のほうに任せるしかないじゃない」

 お堅いことだ。それならば、私も当初の予定通りに行動するまでだろう。

 そんなことを考えている間に、目の前で突然ドアが開いて、書類を持った男が、外界の明るい光を背に現れた。我々はお互いにぎょっとして、立ち止まる。そんな中、一番最初に動いたのは私だ。

 「動くな。動くと彼女がどうなるかわかるか」

 もう一度黒曜石のナイフを取り出して、トワイの首筋に付ける。突然のことに彼女の体が強張るのがわかる。男も今の状況が全く分からずに、思わず書類を取り落す。その心理的空白が狙い目だ。私は問答無用で、男の鳩尾をつま先で蹴り上げた。ぐぇえ、と声というよりも、水道管が詰まったような音を立てて、男が倒れてしまった。私は、トワイの手首をつかんで、無理やり引っ張りながら、階段を駆け上る。

 「な、なにするのよ、あなた」

 「なにって。臨機応変に、そのときすべきことをしているだけだよ」

 いけしゃあしゃあとそんなことを言う鉄面皮な私に、トワイは御憤慨の模様だ。

 「あんなことして、私がどんな気分になるか考えないの」

 「しない」

 私は唖然として、口をパクパクさせている彼女の顔を、満足いくまで鑑賞したあと、一応の説明を加える。

 「だって、僕はこの件が終わったらこの街から追放されて、二度と君とは会えないし、君も二度と僕のこと思い出さないんだろ。だったら、君が僕のことをどう思おうが、僕には何の関係もないじゃないか。もちろん、僕は君との思い出は一生大切に守っていく所存だけどね」

 トワイは私の手を振り払って、赤黒く跡がついた手首をさすりながら、私を睨みつける。最高だ。

 「あなたって、最低最悪のひどい人ね」

 私がこの世で最も愛し、かつ希求するものの一つが真実であり、かくのごとく端的な真実を見目麗しい女性から投げつけられるという、得難き経験を今日も世界が与えてくれたことに、私は感謝しきれないほど感謝している。私の人生は、世界に対する感謝の連続だったと言い切ってもいいほどである。

 私は右手に握っていた黒曜石のナイフで、左手の手のひらをすっと切り裂いた。その脈略のない自傷行為に、トワイはぎょっとして、後ずさる。

 「な、なにをしてるの」

 「いやね。僕の肌を切り裂いたら、トラブルが流れ出るところを見れば、納得してくれるかな、と思ってね」

 私は血が流れ出し始めるその左手で、その手首を掴む。抵抗したくても、手首を伝う生暖かい他人の血の感覚に体が竦んで言うことを聞かない、という様子。

 「そうすれば、観念して僕を真実の元へと案内してくれるだろってさ」

 私の目を見つめ返したまま、魔法がかかってしまったように動けない。

 「ここまで来てしまったからには、街の秘密を見るまで、僕は帰らないよ。正直、教授なんて僕にはどうでもいいんだ。教授が死んだって、僕は僕でこの街の秘密を探るだけ。君から引き出したっていい。人から、その人だって知らないような情報を引き出すことが僕には出来るんだ」

 トワイは完全に信じている顔で聞いている。もう、判断能力の貯金を使い切ってしまっているのだ。

 「あなたって、心底意味不明ね」

 「飼い主がペットに煮るように、人間は世界に似るんだ。古典的なミクロコスモスとマクロコスモスの照応だね」

 相手の聞いていない軽口を叩きながら階段を上ると、行き止まりになってしまう。

 「あれ、ここからは、どうすれば行けるんだ」

 私の質問に、ハンカチーフで手首の血を懸命にぬぐいながら、トワイが答える。

 「ここで終わりよ」

 「終わりって、何が」

 「行政府はここまで。こんな小さな街だからね。すべてを入れてもここまでなの」

 「じゃ、この上は」

 「何にもない。公的にはね」

 「何にもないって、まだ十階とちょっとしか登っていないのに、何にもないはず……」

 私は、教授の車から見た、夜空を思い出した。灯りも人の気配もない、漆黒の窓。

 「そう。ここからが、この街の秘密」

 そのドアは封印されていたが、無理やりこじ開けて、外に出た。少し前までオフィスとして使われていたらしい、がらんとした空間。旧式の計算機などが打ち捨てられている。

 「ここから先は、別の道があるはず」

 トワイはそう言って、部屋をいくつか覗いてまわった。確かにあった。天井をぶち抜いて、梯子が下されている。そうやって、一つずつ一つずつ登っていく。それは驚くべき光景だ。上へ登れば登るほど、設備が旧式のものになっていく。旧式の計算機が、大量のファイルキャビネットとタイプライターになり、冷暖共用の空調設備がただの石炭ストーブになっていく。そこにぽつりぽつりと人の姿。トワイの姿を見て、ぎょっとするが、ただの一人だけなのを見て恐れるに足らずとすぐに興味を失ってしまう。彼らは日の光の入る場所の床を引きはがして、薄いながらも土を敷き詰め、自分たちの食べ物を栽培しているようだ。ごみなどを見ると、下界から残り物をくすねてきている様子もある。

 スラム街がないと思っていたら、こんなところにあったのか。そして、ここには老人もいた。老いさらばえて、今にも塵か灰にでもなってしまいそうな乾燥しきった老人。しかし、子どもはここにもいない。

 私は、破られた窓から、街を見下ろす。上から見ると、街の大半が掘り返されて、モザイク状になっているのが分かる。上を見上げると、両側から街を挟んで押しつぶそうとしている岸壁。

 窓のガラスがほとんどなくなり、風通しがよくなったフロアで、ハイエダ教授は私たちを待っていた。

 「連れてきたのかね。気をつけろ、と言ったのに」

 トワイの姿に教授は一瞬だけ顔を顰めたが、すぐに気を取り直して、語りだした。

 「君たちが遅いから、これを調べてたんだ」

 と、何かを投げる。危うく取り落しそうになりながら、受け取ると、最新型の携帯端末のようだった。

 「これがなにか」

 私の質問に教授は、ジョークの落ちを言う前に自分が噴き出すのを一生懸命こらえようとしている人のように、肩を震わせて答えた。

 「それはまだこの世界にあってはいけないものなのだよ」

 そう言われて思い出した。これは今度発売される、新機種なのだ。

 「その通りだ。しかも、発表会見のと少し形がちがうな。発売までにデザインを少々変更されるのだろう。発表のときには、まだこれは発掘されていなかったわけだから、仕方がないが」

 教授はとうとう我慢しきれなくなって、体を折り曲げて、笑い始める。

 「こんなものを掘り出してしまった考古学者は発狂するしかないじゃないか。え、そうだろ」

 私の脳裏でも、いくつかのことがつながり始めている。なぜ、発掘された家屋のほうが今建っているものより、現代的なのか。なぜ、ビルの上のほうが廃墟なのか。そもそも、なぜ、この街はこんなところに建設されているのか。いや、そもそもこの街は建設されたことなど、なかったのだ。

 「分かったようだな。君は、嘘つきだが、頭は良いようだ。私の考古学者人生はここでおしまいだが、私を唆した君を別に恨んではいないのだよ」

 「唆した覚えはないのですが……」

 「唆したじゃないか。あの夜、酒を飲みながら。秘密を探る男と、探り当てられた秘密の真偽の怪しい物語で」

 教授は窓際に歩いていく。そこに、あの盗み出された甕も転がされていた。

 「私はこの中に、何が隠されているか、開ける前からすでに分かってしまったんだ。だから、正直なところ、もう興味の半ばは失っているんだ。だから、開けなくてもいいんだけど。この際確認のために開けてしまおうか」

 それをトワイが鋭い声で制止する。

 「やめなさい教授。ここまでは、まだいいとしましょう。でも、そこから先は許されません。それは、命に関わる問題です。そこを超えてしまったら、もう引き返せなくなりますよ」

 その言葉に、教授はうつむいて考える。

 「ということは、やはり私の推理は正しかったというわけだな」

 と、甕から手を放す。

 ええ、やめちゃうのかよ、俺を抜きにして勝手に話を進めるなよ、とこの場で最も無関係な私が思うのをよそに、真実にやわらかい覆いを掛けたまま、事態が収束するに見えた、その刹那。

 「それでも、確認しようとするのが学者というものなのだ」

 と教授は、甕の蓋に手を掛けて、無理やり開けようとする。

 「やめなさい」

 トワイが駆け寄って、教授を甕から引きはがそうとする。しかし、間に合わなかった。

 中から、現れたのは人の胎児だった。まだ人の形になりきっていない、目を閉じた弱弱しい生き物。それが甕の中からこぼれた液体とともに流れ出した。非常な空気にさらされて、それは未だ生命になりきることもないまま、そのマイナスの生涯を終えたようだった。

 「なんということを……」

 トワイはその光景を見て、蹲って泣き始める。

 その姿に、教授が突然激高する。

 「なぜおまえが泣く。泣きたいのはこっちだ。お前らは私たちを騙していた。騙して、自分たちのために私たちを一方的にこき使ったんだ」

 「だって仕方がないじゃない。私たちには掘り続けるしかないの。掘り続けて、自分たちの住む家を、自分たちの子どもを、自分たちの未来をそこに見つけるしか。私たちは、子どもを作る能力もないのよ」

 「ああ、道理でゴム製品を売っている店がないと思ったら……」

 「あなたは黙ってて。もう少し。もう少しで、私たちは外の世界に追い付いて、追い越すことができる。それまで、秘密を守り通していかなくてはいけないの。そのためには、誰だって利用するし、誰だって騙す。それの何がいけないの」

 その言葉に、教授はひきつった笑いを浮かべ、

 「悪くない。別に悪くないよ」

 と平坦な声で返答する。

 「みんなそうやって生きている。そして定期的に誰かが犠牲者になるんだ。なんで自分が、と思いながらね。それが人生、それが世界というわけだ」

 教授は存在しないガラスに身を預けるように、窓に寄り掛かった。

 「教授、なにを……」

 私は走った。が、間に合わなかった。身を乗り出した私の眼下で教授の体が、くるくると回りながら、小さくなってただの点になっていく。

 「何も死ななくてもいいのに」

 振り返ると、相変わらずトワイが泣いていた。

 「終わってしまったものは仕方がない。元気を出せよ」

 「教授も取り逃がしたし、貴重な未来の市民も死なせてしまった。これで、私のキャリアもむちゃくちゃ。何もかも台無しよ」

 「大丈夫、現実ってのは明け方に栓抜きで額を割りに来たりするけど、すべて台無しってのはないんだよ」

 「なにそれ。何かいいこと言ってるつもりなの」

 「大丈夫、安心して。何もいいことなんて言ってない。世界とか現実とかと同じくらい意味不明なことを言ってるつもりだよ。だから、なんとかなるって。だって、君はほら……あれだ……うんと……その……綺麗だから。すごく美人だから、なんとかなるよ」

 我ながら、ひどい慰め方だ。

 「なんだったら、一緒にこの街を出よう。外で何か仕事でも見つければいい」

 トワイはふるふると首を横に振る。

 「無理よ。この街で生まれた人間は、ここでしか生きて行けない。何故かなんて訊かないでよ。答えられないから。あなたは、真実を求めてるなんて格好つけてたけど、これで一体どんな真実が分かったっていうの。この街は奇妙なことに、もともと土の中に埋まってて、掘れば掘るほど新しいものが出てくる。そして人間たちも。誰が埋めたかなんて知らない。どれくらい埋まってるのかも知らない。調べても分からない。外の人間に調べてもらうわけにも行かない。あなたは、この街の隠された部分を無神経にも弄って、一体何を得たの」

 「たくさんのことを、得たつもりだよ」

 もう、下手な慰め方をしても仕方がないから、できる限り落ち着いた話し方を心がける。

 「真実は分かりきったり、分からなきったりするものじゃない。だんだんと分かったり、だんだんと分からなくなっていったりするものだ」

 「一つだけ分かりきってることがある。この街の人間は、この大地と強く繋がっているから、この街から離れられない。ここで生きて、ここで死んで、ここの土に帰るしかない。たとえ、大地がもう何も生み出してくれなくなっても」

 「それならば、僕だって同じだ」

 相変わらず唐突な私の言葉に、トワイはきょとんとした目で私を見上げる。

 「僕だって、生きて、死んで、土に帰るしかない。そして君が大地と繋がっているように、すべての大地は繋がっている」

 トワイは私の言っていることの意味を理解しようとし、懸命にも諦めると、赤くなった目の周りをさらにぐじゅぐじゅと擦りながら、私の顔を睨み上げる。さすがにその顔じゃ、もう怖くない。

 「もしかして、今度こそ良いこと言ってるつもりなの」

 「さあ」

 手のひらを上に向けて、肩を竦める。私の人生の女神像は、きっとこんな姿でどこかに埋もれているのだろうと思う。

 「とにかく、泣いてても仕方がない。こんな辛気臭い場所からさっさと降りよう。君のキャリアだって、まだ終わったわけじゃない。例えば、ここで僕を捕まえることが出来たら、多少の言い訳にはなるかもしれないよ。あくまで例えばの話だけどさ」

 「それ、いいね」

 トワイの目が急に輝き出す。

 「いや、あくまで一つの例であってね」

 「じゃあ、早速行きましょ。前言撤回だわ。あなたのことは一生忘れない。ここまでのことを仕出かしたんだから、死刑は確実でしょうけど……」

 「仕出かしたって、やったのは僕じゃないよ」

 「あなたが何を言おうと関係ないし、真実がどうかなんてもっと関係ない。重要なことは書類がちゃんと書けること。そして私の人生が実り豊かになること」

 ああ、まただ。いつもこうだ。私がこの街を訪れたときは、皆親切な人たちばかりなのに、私が去る頃になると、皆自分勝手で嫌味な人間たちばかりになってしまう。一体、なぜこうなってしまうのだろうか。誰か、悪い人間でもいて、彼らに悪い影響でも与えているとでも言うのだろうか。そんなことはとても考えたくない。

 「まあ、落ち着きなさい。僕と君の仲じゃないか」

 「どの口でそんなことを言えるっていうの」

 「昨夜はあんなに可愛かったのに」

 「今更遅い」

 もう、説得しても無駄そうなので、実力行使に出るしかないか、と思い始めた頃、階下から、何人もの人間がどやどやと近づいてくる音が聞こえ始めた。ようやく追手が追いついてきたのだ。随分呑気な奴らだ。

 トワイは、その足音に色めき立つ。

 「あ、みんなこっち。こっちよお。ぅきゃあ」

 走っていったかと思ったら、銃声を背に引き連れて走って戻って来た。どうやら手荒い歓迎を受けてきたらしい。

 「やっぱ君のキャリアは終わりみたいだね。僕の仲間だと思われてるんだ」

 「一生恨んでやるから」

 「忘れられるよりも上等だよ」

 私は、中身がまだ多少残った甕を持ち上げながら、急いで穴に駆け寄る。

 「な、何をするの」

 「そうれ」

 まずは独特の匂いのする羊水を登ってくる男たちの頭にぶっかける。ついでに空っぽになった甕を投げつける。それが一つ下の階で大きな音を立てて割れるのを、耳だけで確認しながら、私は再びトワイの手首を掴んで、走りだす。

 「どうする気なの」

 「逃げるに決まってるじゃないか」

 「逃げるってどこへ」

 「さあね」

 逃げられる場所があるわけではないが、それでも逃げるほか仕方がないので、二人揃って、再び上へ上へと登っていく。この状況は少々人生に似ている。

 登って行くと、とうとう鉄筋コンクリートが木造になり、ガラスは紙となり、床は草になっていた。崖と崖の間を吹き抜ける強い風が通り抜けるたびに、ぐらぐらと揺れるこの階層には、もうほとんど人もいない。いても、ずっと昔に死んでしまって、ここの住人はこういうものなのか、一塊の泥のかたまりになってしまったものだけ。その上は、すでに風で壁がふき飛ばされ、ギシギシと音を立てながら揺れる骨組みだけになってしまっている。あの時、遠目に見た光景は、本当だったのか。

 そして我々は、それ以上は上がない場所へたどり着いてしまった。柱さえ、もうそこから上には伸びておらず、ただ床の切れ端が、たとえ風が吹かなくとも、ゆらゆらと揺れている。もう、いつ崩れ落ちてもおかしくない。

 「どうすんのよ。ここから」

 「今、それを考えてるんだ」

 「今から考えても、遅いに決まってるじゃない」

 私は上を見上げた。両側からせり出した崖が見える。街よりも、ずっと近いが、まだ遠い。もしかしたら、この街が掘り出される前は、あそこが地面だったのかもしれない。誰かが、もしくは川の作用か何かが、この地面を少しずつ掘り下げ、この奇妙な街を発見したのだ。

 「そうだ、飛ぼう」

 私の言葉に、トワイの表情は怒りも呆れも超えて、可哀想なものを見るそれになる。

 「どうやって」

 「だから、服を脱げ」

 「はあ、ちょっと……やめ……」

 問答無用だ。私は自分の服も脱いで、ボタンを組み合わせてみたり、袖を縛って見たりして、試行錯誤をする。パラシュートの類のものが作れて、この強風に乗って飛べるのではないかと、少し考えたのだ。

 「でも駄目だったな」

 最後にはビリビリに破れてボロ布になってしまった服を抱えて、そう言う私を、トワイは下着姿で肩を抱きながら、もうどんな表情をすればいいのか分からないという感じだ。

 「何か私に、言うことはない」

 そう言われて見ると、あるような気がする。トワイの姿を、頭のてっぺんからつま先まで、舐めるように眺めながら一生懸命考えた結果導き出した結果が、

 「綺麗だよ」

 だった。

 「はぁっ」

 トワイが盛大な溜息を吐くので、慌てて言い訳をしようとしたその時だった。

 「つまり、僕がいいたいのはさ、おわあっ」

 「きゃあっ」

 一際強い風が吹き、隙間だらけのパラシュートが風を孕んだ。床の大部分と、ほとんどの柱が吹き飛ばされ、私も足場からつま先が離れるのを感じた。思わず伸ばした手を、トワイが思わず掴もうとしたが、指先が触れるか触れないかで、私は離陸してしまった。数少ない足場にしがみついているトワイの姿がどんどん小さくなる。私と一緒に飛ばされた、柱や床、そして元々は人間の体だったと思しき残骸は、すぐにぽろぽろと崩れて、塵や埃になっていく。あのとき、私の目に入ったのも、これだったのだろう。

 私はほんのちょっとだけトワイが心配になったが、この数日の間に、いっきに図太くなったのだから、多分強く生きていくだろうと断定して、しても仕方のない心配するのをすぐにやめにした。それよりも自分の心配をしなくてはいけない。

 飛べたは飛べたのだが、崖は更に頭上。このままでは岸壁に激突してしまう。なんとか、この穴だらけの継ぎ接ぎで、風を受け止めて、高く、どこまでも高く飛び上がらなくてはいけない。

 飛ぶのはやさしい。難しいのは、着陸することなのだ。

解説

2013年12月に発行された名大文芸サークルの部内誌『葡萄 vol.11』に掲載された作品を一部修正したもの。

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