淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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尿意と悲しさ

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尿意と悲しさ

 ――普遍について論じる博士たちが見落としていたこと、それはすべての抽象的な存在者にまとわりつく一抹の悲しさだ。

    中世末期の知られざるスコラ哲学者

 とにかくものすごい尿意だった。早くボトムスを脱ごうとするのは自然だ。しかしない。ファスナーがない。なぜ。普通ファスナーがあるはずだ。おかしい。これはおかしい。しかたない。ファスナーを下すことが出来なくても、脱ぐことは可能だ。多少引っかかるかもしれないが、くねくねしたりいろいろちぎったり飛ばしたりすれば不可能ではないはず。もしかしたゴム紐かもしれない。それならば楽であることが予想される。もちろん予断は許されないが、正直細かいことを気にしている暇はないのだ。それほどものすごい尿意なのだ。しかしない。脱ごうにもボトムスの上の端がない。見つからない。どこにも見当たらない。上の端がなければそこからずり下ろすこともできない。そもそも脱ぐことができない。どういうことだ。それでは下半身はすっぽりボトムスに包まれているのだろうか。それでは上半身とどこで繋がるのか。上半身とつながっていなければ、それを下半身と呼んでいいのか。これは注意深く概念を整理して当たるべき問題だが、今はそんなときではない。なぜならものすごい尿意だからだ。このさい下半身だろうがただの半身だろうが下全身だろうが関係ないのだ。そんなことよりも可及的速やかに尿意を解消するための準備を完了することのほうが先決だ。しかしどうやって。これでは文字通り八方塞がりだ。こんなときこそしっかり考えるべきだ。正規の手続きで脱衣をすることができないのならば、少々乱暴な手段に訴えるしかないことは簡単な消去法でわかる。現実世界での消去法による推理の妥当性については今は置いておく。乱暴な手段とは例えばどんなものだろう。どれくらいの力が必要かはやってみたことがないのでわからないが、繊維を無理やりちぎって布をはぎ取ることができるかもしれない。だいたいこの手の構造物は少しでも断裂が起これば、そこから力の不均等が発生し、それ以降の作業が圧倒的に楽になるものだ。早くしなければ。もう時間がない。しかしない。布をつかもうにも、つかむための器官がない。つまり手がない。当然指もない。さらに言えば手を布のある場所に移動させるための腕もない。それでは予定されていた作業を遂行することはできない。これは予想外だ。そしてなおかつ予想しておくべき事態だともいえる。もし初期の段階でこのことが知らされていたら、もっと早く計画変更ができたであろう。これがあらかじめ明らかにされていなかったことは、大きな問題だ。今後このようなことが起きないように、対策を講じるべき。そのために調査が必要だ。その結果分かったこととして、そもそも上半身などどこにもなかったのだ。これで下半身が上半身とつながっていないのではないか、そしてそれは下半身と呼んでいいのかという問題の上半分もまた消えたことになる。しかし下半分はまだそこにあり、そしてなによりすでに爆発寸前に垂んとする尿意がすべてを圧迫している。こうなればもう選択の余地はない。背に腹は代えられない。このまま放出するしかあるまい。尊厳など様々なものを失うかもしれないが、そもそもこのような異常な状態に陥っておいて尊厳も糞もあるまい。あきらめも肝心だ。しかしない。ないのだ。尿意を放出しようにも、尿意の放出口がない。どこにあるのか見当もつかない。そもそもそれがどのような形をしていたかが謎だ。確か何種類か形があったと思われる。しかしそれが2種類だったか3種類だったか、それとも5種類だったか。そして何種類なのかが分からなければ、そもそも今探すべきなのがどのようなものだったか分かるはずもない。全体が決まらないのに、その一部がどんなものか確定することは土台無理なことを説得的に議論するのが「全体論」である。そしてそもそも尿意を解消するためには尿意を放出すべきだという前提が正しかったのかもだんだんと分からなくなってくる。尿意以外の何かを放出すべきだったかもしれない。それは、尿意を放出することが無理なら尿意の流入を止めるべきだという次善の策が、尿意の流入口が存在しないという事実によって暗礁に乗り上げてしまったことからも分かる。奇妙なことに、尿意が流入していないにも関わらず、尿意は増大の一途をたどっている。まるで無から尿意が発生しているかのごとくだ。しかし「白鳥の首」と呼ばれる尿意が入り込めないガラス容器の中では決して尿意が発生しないという実験によって尿意の偶然発生説は否定されたはずでは。それでは尿意に深く関係した何かが尿意の増大及び解消の原因になっているのかもしれない。しかしそれはなんだ。もしかしたら尿意という言葉や概念について分析することによって答えが分かるかもしれない。しかし言語分析によって世界の謎を解明しようとするある種の分析哲学は必然的に非科学的な概念実在論を帰結しないだろうか。今問題なのは言葉でも概念でもない。生の、真正の、どうしようもなく現実的な、尿意なのだ。しかしその尿意をどうすればいいのか。もうお手上げだ。いや、その上げる手すらないのだ。つまり、手はないのだ。ほかに使えるものはないだろうか。ない。尿意と関係あると広く思われている便座すらない。そもそもここはトイレではない。どこでもない。どこかですらない。もしどこかであったら、なにかがそこにあることが可能である。しかしどこかではないので、そこに何かが存在することは文法的にありえない。当然そこには下半身もないし、下半身を包むボトムスもない。先ほどの問題の下半分もこれにより解消されたが、最初の問題は解決されずに残っている。つまり尿意だ。しかしこの世界では何か問題が解決されることなどないのかもしれない。問題というのは解決されるのではなく、乗り越えられるべきものなのだ。そのためには長い時間が必要だ。しかし時間がない。文字通り時間はないのだ。存在しない。存在するのはただ尿意だけだ。時間もないただひたすらな無の中に、膨大な尿意だけが存在している。

 この尿意はきっと決して解消されることはないのだろう。そんなことは存在論的に無理だ。自らを抱えて存在すること以外、何もできないのだ。そう考えると、その尿意があまりにかわいそうで、泣きたくなるような悲しさがどこからともなく湧いてきて、尿意に静かに寄り添った。

解説

尿意を我慢しながら書いたというのは嘘だ

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