怪人モアレ男
君たちは知っているだろうか。聞いたことがあるだろうか。
街を恐怖におとしいれた怪人モアレ男の噂を。
聞いたことがあってもなくてもかまわない。
これから私がしようとするのは、怪人モアレ男誕生のきっかけとなったと思しき出来事である。
そう、私は恐怖の誕生に立ち会ったのだ。
彼の名はモワレ・シュブラック。もちろん本名ではない。本人がそう名乗っていた。彼の本当の名を私は知らない。
彼は変態だった。
彼はモアレ模様に異常な執着を持っていたのだ。
網戸を二枚重ねてずらしたり蚊帳や漁網にくるまっては、現れては消える縞模様を目で追いかけ、友人の漫画制作を手伝っては、勝手にスクリーントーンを重ねたりパソコンで画像ファイルを乱暴に縮小たりして目を幻惑させる奇妙なノイズで原稿を台無しにし、ブラウン管を撮影した映像をひたすら陶然と眺めていたと思えば、音程の違う音叉を同時に鳴らして、その音に合わせておうおう唸ったりしていた。
人からどう見られようと、彼は幸せそうであった。
しかし、ある頃からそんな彼が何か物思いにふけるようになった。そして何もない虚空に視線をさまよわせたり、かと思うと人と喋っていても妙に焦点の合わない目で相手の顔を見ていたりした。
「乱視が進んでいるみたいなんだ」
プリズムのように分厚く、像が何重にも映る眼鏡を外して、目頭を押さえながら、彼はそういったものだった。
「突然視界が二重になったり、逆に物体が重なって見えたりする」
私は目がいい方だったのであまり想像できないが、聞くだに大変そうだ。
「でも悪いことばかりではない。ちょっとしたアイディアが思い浮かんだんだ。近いうちに実行にうつそうと思う」
何をするのか聞いても、普段はぺらぺらと自分の考えを話す彼が、今回ばかりは言葉を濁す。
「その前にやっておきたいことがある。最終確認としてね」
その日彼の部屋に行くと、彼は奇妙な装置を組み立て終わったところだった。
≪ブラックバーンの振り子≫と呼ばれるそれは、上部に固定された横棒の両端からY字型に糸が伸びる振り子で、横棒と垂直の方向に振れるときは横棒から錘までの長さで、横棒と並行の方向に揺れるときはY字の三叉路から錘までの長さで揺れるので、縦と横で周期が違う。合流点の高さが変われば当然様々な軌道で錘は揺れる。そこで錘として少しずつ落ちる砂を使うことでリサジュー図形と言われる様々な模様が記録されるのだ。
彼はその砂としてオーストラリア・アボリジニ達がドリーミングに使う砂を使い、生成される模様の中から何かを見出そうとしているようだった。一定の速度で流れ出す白い砂の描く曲線は、アンゴラ羊の柔らかい毛が織られるように絡み合う。摩擦によりそれは数学的なリサジュー図形から離れ、ヨガの行者が自分の中に没入するように、自分の中に縮小しながら相似な図形を描いていく。黒地の紙の上に、何重にも折り重なった目のようなものが現れた。まるで瞳孔の中にまた目があるようだ。虹彩の縞が重なり合って、干渉縞を作っていく。
「見えるか。これが宇宙の目だ」
私は彼が冗談で言っているのかいぶかしんだ。まだ彼の正気を疑う勇気を私は持たなかったのだ。
「この宇宙の目が見ているから宇宙は存在している。いや正確には存在しているように見えるのだ」
なんとなくこんな彼を私は好きになれなかった。以前のような明るい変態に戻ってほしかった。
「存在しているものはすべて宇宙の目が見ている模様にすぎない。しかしこの目自身もまた、模様なのだ」
そう思っていた矢先に彼が言い始めた計画が、「二枚の網戸に挟まれてみたい」というものだった。その馬鹿らしさに私以外の友人たちも大笑いし、全盛期のモワレ・シュブラックが戻ってきたものと小躍りして喜んだ。
皆で彼の部屋に集まり、外した網戸を二枚用意した。彼はそれらを重ねてずらしながら、独特のテクスチャを恍惚の表情でなでたりしていた。
床に置いた網戸の上に彼が横たわり、その上に網戸を重ねて四方を力ずくで引っ張りながら固定した。当然網が外れそうになるが、そのたびに補強して、無理やり彼を網戸の間に挟み込んだ。
どう考えても痛いはずだし、表情もそう語っているが、止めようとするたびに彼は「これでいい! そのまま続けろ」と叫びながら私たちを叱咤激励した。気迫に気圧されて私たちは、従わざるを得ない。
「なるほど。なるほどそういうことか」
彼が身動きするたびに生成消滅するモアレ模様の中で、彼は目をきょろきょろさせながら何やらつぶやいている。圧迫感にも慣れたのか、モアレ模様に包まれたその表情は、どんどん満面の笑みになっていく。
「当人が満足なら、いいことだ」
などと皆で笑っていた。しかしその時、一人があることに気付いた。
「でも、あれじゃ本人はモアレ見えなくないか?」
言われてみればそうである。では彼は何を見ているのか。
突然疑問の嵐の中に投げ込まれた私たちの前で、奇妙なことが起こり始めた。網戸の網の膨らみが少しずつ萎みはじめた。何が起こっているのか、だれも理解できなかった。無言で目を見張るばかりで、誰も動くことができなかった。
彼が消えようとしている。そのことをようやく理解して、慌てて網戸の固定を外そうとしたときには、帆二つの網戸はほとんど密着しようとしていた。
「大丈夫だ。これでいいんだ」
助けようとする私たちを平穏な視線で見渡しながら、彼はそう言う。その姿はどこかぼやけてちらついて、モアレ模様と一体化し始めていた。
「もともとの状態に変えるだけだ。これがあるべき姿なのだ」
固定していた金具が外された。我々はそれを勢いよく引きはがした。
そこに彼はいなかった。
モワレ・シュブラックはどこにもいなくなってしまった。
後日、彼の部屋を整理していたら、失踪の前日まで書き続けられたノートが出てきた。そこにはこう書かれていた。
「結局のところ、この世界とは本当の世界ではない。二つ以上の世界が衝突して干渉した結果生じた干渉縞、モアレ模様にすぎないのだ。我々が世界の基本要素と考えているクオークやらレプトンやら光子やヒッグスやグルーオンやらの素粒子もなんら実態を持つものではなく、世界の重なり方が変われば消えてしまうものにすぎない。当然、それらが時間軸に沿って紡がれた時空ワームが縦横に織りなすテキスタイルでありテキストである我々もまたしかりだ。世界たちがゆっくり動いてくれている間は、さもすべてが連続的に動いているように見えるだろう。しかしちょっとした変化が、すべてを崩壊させてしまえる。例えば二つの網戸を平行に動かしているうちはいいだろう。しかし片方を外してしまえば。世界は消えるのだ。こんなことに一喜一憂するのは馬鹿らしい。すべてが幻に過ぎないのに、なぜそれに拘らなくてはいけない。幻に過ぎないのなら、幻を、幻であることを、楽しもうではないか。私は世界の重なり方を局所的に動かす方法がわかったかもしれない。それはちょっとした視点の変更、世界の見方の変更によってもたらされる。そうすれば、幻から解放され、幻としてあるべき姿に立ち戻れるかもしれない」
このノートの解釈については私には何も言えない。狂ってるとしか言いようがない。しかし、もし単に彼が狂っていたとして、私たちが見たものは何だったのか。
そしてそのすぐ後からだった。街にあの「怪人モアレ男」の噂が立ち込め始めたのだ。
網戸を重ねてはいけないよ。蚊帳をたたんではいけないよ。もしあなたの目の前で、モアレ模様から不吉な顔が浮かび出はじめたら、急いでずらして消さなくてはいけない。でないと怪人モアレ男が来るよ。モアレ模様の中から現れて、あなたをどこかに引きずり込むよ。
人々をどことも知れない世界へ連れ去り、大切な物を忽然と消してしまう怪人モアレ男。それはモワレ・シュブラックなのであろうか。それは私にはわからない。わかりようもない。
それについて考えようとすると、目の前の物体が急に二重に見えたり、逆に二つの離れた物体が重なって見えたり、耳の奥で重なり合う二つの耳鳴りが唸りを上げ、私を呼ぶ声に聞こえはじめたりするからだ。