淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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間違いだらけの少数民族

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間違いだらけの少数民族

 うちの近所で新しい少数民族が発見されてしばらくが経ち、ようやく世間も落ち着きを取り戻しはじめた。

 最初は酷かった。人々の反応と言ったら、物騒ねえだのこわいなあとづまりすとこだの世も末だなどと正鵠を得ないことばかり。大体世が末になればなるほど未発見の少数民族が少なくなりそうなことぐらい、少し考えれば分かりそうのものだが。

 とにかく、当初の混乱が収まったあたりで、今まで分かったことの確認をしよう。とは言っても分かったことなどほとんど何もない。唯一判明したことはといえば、彼らが何もかも間違っている、ということだ。

 知は積み重ならない。それは流れ去る。

 つまり個人の知識にしろ、人類全体のそれにしろ、単調増加したりはしないということだ。

 彼らの言語体系や歴史が順調に判明しているように思えたある日、とんでも無いことが分かった。

 彼らはかつて、自然は真空を嫌い、月より上と月より下の世界は円運動と直線運動という別々の法則に導かれていると考えていた。

 もちろんこれらは間違いである。

 その後彼らは、熱とは熱素(カロリック)という一種の粒子であり、熱いものがだんだんと冷え、冷たいものがだんだんとぬるくなっていくのは、この粒子が移動するからだ、と考えたり、物が燃焼するのは然素(フロギストン)と呼ばれる物質が放出されるからだと考えたりした。

 これらももちろん間違いである。

 さらに彼らは、世界には全ての運動となる絶対空間と呼ばれるものが存在し、光は絶対空間に対して静止したエーテルと呼ばれる媒質の振動だと考えた。

 さすがに、これは無理があって、その後彼らは、空間や時間は運動に対して相対的で、むしろ光の速さこそ全ての運動に対して絶対的に一定だとしたり、運動量と位置とは同時に正確に知ることが出来ず、その誤差の積には下限があり、これはどうやら物質というものは揺らぎ続ける存在確率の波のようなものだからだ、とした。

 これらの説も、以前のものと比べたら世界を上手く記述・説明していたのだが、結局は間違いであることが分かる類のものである。

 彼らはそのほかにも、ガラス管を通すと水が高分子化するだの、常温で核融合が起き、鶏はそれによって体内で卵の殻のためのカルシウムを合成しているだの、革命的努力の結果獲得した形質は遺伝するはずだという信念のもと、種を低温に晒すことにより低音に強い品種に改良していけば、猛毒の鞭を振り回して三本足で歩き塩水で溶ける知能植物から良質の油が取れるようになるだの、我々から見れば愚かというほかない奇説珍説をしこたま捻り出している。

 ここまでのことから何が言えるだろうか。

 我々の科学の基本的な推論方の一つに「帰納」がある。これがなければ一切の科学は成り立たない。

 その推論形式は、「AはXである。BもXである。CもXである。……よって、これらのものと共通の性質を持つものは、全てXである」というものだ。

 これを使えば、実に単純に結論に至れる。

 「彼らが過去に主張した全てのことは間違いである。よって、彼らの主張することは全て間違いである」

 こうして、彼らの言うことは全て間違いであることが判明してしまった。

 この事実の重みが分かるだろうか。

 このことが分かった今、彼らの言うことは一切信用が出来ないのである。

 たとえば彼らがウサギを指差しながら「ウサギ」と言ったとする。これは決して彼らがウサギを「ウサギ」と読んでいることを意味しない。もしかしたら彼らはウナギのことを「ウサギ」と読んでいて、その上で目の前のウサギを間違えてウナギだと思い込んで、それを指差し「ウサギ」と呼んでいるのかもしれないのだ。それどころか、彼らの言う「ウサギ」とはある瞬間まではウナギのことを意味し、その瞬間が過ぎたとたんウとサギの複合体を意味する単語かもしれないが、彼らはその瞬間までウサギをウナギと間違え、その瞬間が過ぎた途端ウとサギの複合体と間違えているのかも知れない。

 彼らの思考が全て間違っていることが明らかな以上、彼らの発言、いやそれどころか彼らの行動からも、彼らが世界をどう捉えているかを知ることは出来ないのだ。

 もちろん行動や肉体組織から、彼らの物理的化学的生物的遺伝的動物行動学的な特徴を調べることは可能だ。しかし、それらは結局のところ、我々と寸分たがわず同一に他ならない。

 我々が知りたいのは、彼らが我々と違う部分、彼らが少数民族であるその根拠、すなわち彼らの文化なのに、それについての理解の道は完全に途絶している。

 ここから分かることは、我々が彼らが何もかも間違えていると考えた根拠である彼らの歴史もまた、いまや非実在の泥濘の中に沈んでいくほかない、ということだ。おそらく、彼らは今まで月上の世界と月下の世界の違いや、絶対空間や、量子もつれにおける非局所性、などといった奇怪な概念を一度も思いついたことなどないのだろう。せいぜい思いついたと思い込んだくらいが関の山だが、彼らの言語の通訳不可能性が明らかとなった今それすら期待できない、というのが本音である。

 はっきり言ってしまえば、彼らとコミュニケーションをとることは不可能である。いや、そもそも彼ら同士で意思疎通することすら不可能なはずだ。彼らが我々からみて会話に見える行動を一見とっているのは多分、コミュニケーションが可能であると誤認しているのだろう。

 そんな欠陥生物が今まで生き残ってきたというのは、廃品置き場で起こった竜巻が完璧なボーイング747を作ってしまうなみの奇跡といわざるを得ない。それもなぜそのような奇跡が可能なのかについての理解への道は閉ざされている。

 このような奇跡よりはよほど、奇怪な彼らの言う言葉を信じてしまいたくなるが、それは不可能だ。彼らの発言にもし微塵でも真実が含まれていると仮定したが最後、我々は彼らの言語を翻訳することが可能になり、いまや図書館の奥に保存されるのみの運命となった彼らの歴史についての研究が正当なもととなり、よって彼らの発言が全て間違いであると認めざるをえなくなる。背理法によって、彼らの発言には一切の真実は含まれていないことが証明される。よって我々は彼らの発言および文化内容について一切知ることは出来ないが、それが全て間違いで我々に知ることが出来ないことだけは論理的に知ることが出来るのだ。

 この議論は直感主義的には問題があるが直感的には明らかなので、広く受け入れられている。主義なんてものはいざというとき弱いものだ。

 かくの如き袋小路的状況が長く続けば、誰もが興味を失う。世間の反応は冷え切り、まもなく彼らについての研究は途絶えた。近所に新発見の少数民族が生息していることや、いままで普通に付き合っていたお隣さんが一切の意思疎通が不可能であることなどに、最初は気味悪さを覚えていた付近住民たちも、長期にわたる哲学的違和感に耐え切れずに、すぐに慣れてしまった。そんな奇怪なものに耐えられる人で構成される付近住民というのも面妖千万なので文句は言うまい。ただそれが惹起した社会現象には面食らうほかなかった。

 彼らは発見される前と同様に、自分たち同士で、そして自分以外の人たちと、会話が出来ると錯覚しながら会話によく似た行為をしている。交流が可能だと誤認しながら、一切共有できる価値は存在しえないのに、通貨を介して物品を交換していたりする。

 そして恐ろしいことに、彼ら以外の人たちも彼らと何かが伝達あるいは交換可能だと信じてはじめてしまったのだ。これは一体どういうことなのだろうか。もしかしたら、混血が私が思っていた以上に進んでいるのかもしれない。我々知識人はナチス以来、純血主義に抵抗を覚えるようになり、私もそれらに眉を顰めることをいつの間にか学んだが、これにはさすがに本能的戦慄を覚えざるをえなかった。

 一体どれほどの人々が事象の地平面の向こう側にいるのか把握できない、というのは端的に恐怖である。道を歩くと私は、もしかしたら私以外の全ての人たちがあの少数民族の構成員になってしまったのかと思えるのだ。

 ただし、だからといって私が何か具体的なアクションをするわけではない。

 大廈の覆らんとするときに、一木いかでかこれを支えん。三十六計慣れるに如かず、である。

 理解し得ない人々とすれ違い、理解し得ない人々とレジを挟んで向かい合い、彼らには理解できないはずの貨幣で物を購い、必要とあらば談笑だってしてみせる。そんな毎日に私はだんだんと麻痺していく。

 心配することをやめ、愛する必要があったからだ。

 最後の手段として、私は少数民族の一人を、配偶者として迎え入れたりもした。もちろん抵抗はあったし、お互いを全然理解できないことにはかなり苦労した。それでもなんとかやっていることを考えると、やはりこの世界において問題というのは決して解決せず、ただ乗り越えられるものだというのは正しいのだろう。時間をかけて乗り越えられない問題はないのだ。

 逆に考えれば、何も解決していないということでもある。我々は相変わらず絶対的な相互的無理解と、無理解に対する理解不可能性の暗闇の真っ只中にいる。

 実際先日も私が配偶者に、

 「我々は本質的に、永久に分かり合えない関係らしいな」

 と言ったところ、次のような答えが返ってきたのだった。

 「ほんとそれ」

解説

ドナルド・デイビッドソンの「チャリティ原理」が元ネタである。

中で語られていることの多くは科学史上の実話だが、ルイセンコ学説の絡みで『トリフィドの日』ネタが混入されている。

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