淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

このページについてフィードバック(感想・意見・リクエスト)を送る

Don't panic!

焼却炉のエスカレーター

書庫に戻る

焼却炉のエスカレーター

 これは2ヶ月程前に知り合った、安藤さんから聞いた話である。

 遅刻寸前だったから、とにかく急いでいたんだ。分かるだろうけど、一本でも早く地下鉄に乗れれば、ずいぶん時間が短縮できる。だから、あまり行儀がいいとは言えないけど、下りのエスカレーターを走って駆け下りようとしたわけだ。丁度みんな歩かずに左側によっていてくれて、右側は開いていたんだ。そこを左側の人たちに接触しないように風のように駆け抜ける、って計画だったわけよ。しかし、そのとき俺はおかしなことに気付いたんだ。向かって右側にはエスカレーターと一緒に動くゴムの手すりがあって、その向こうには階段があるだろ。そしてその階段は地下鉄の改札があるフロアまで続いている。そんでもって俺はエスカレーターもそのフロアに通じていると思ってた。普通そうだろ? なのに、このエスカレーターはそこで止まらず、トンネルに入って更にその地下まで続いているみたいなんだ。それに下りだけで、上りが見当たらないのも不自然だ。ふとトンネルの入口の上部に目をやると、こんな表示がしてあった。

 焼却炉

 それを読んだ俺は、非常に理解しやすい行動だと信じるんだが、トンネルの奥を覗きこんでみた。中は明かりもなく真っ暗なんだが、その暗い口の奥になにか赤いちらちらしたものが揺れるのが見えたような気がした。俺は思わず丁度隣に棒立ちしていた背広の男の肩を掴んで話しかけていた。

 「おい、このエスカレーターの行き先って……」

 俺は文章を終えることが出来なかった。その男の反応が異常だったからじゃないんだ。その男の反応がエスカレーターのステップにぼうっと立っていたときに急に話しかけられた男の反応としてあまりに通常だったので、自分がこれから聞こうとしている質問のあまりの馬鹿馬鹿しさに物怖じしてしまったんだ。しかしその間にもエスカレーターは休みなく人間を暗い穴の中に輸送していく。俺自身も、その一人一人と着実に人を飲み込むその口から、熱い空気が吹きだすのを感じるくらいの位置まで来ていたんだ。今でも覚えてるんだが、何だか嗅いだ事なんか一度だってないのに、それがなんだか分かっちまうような嫌な臭いがしたよ。しかし周りの人間は何も不思議なことは起こってないみたいな感じなんだ。慌てて俺はさっき話しかけたやつに掴みかかり、表札を指さしながら

 「お前、あの焼却炉って字が見えないのか?」

 と叫んだんだが、そいつは

 「へ? あ?」

 と、エスカレーターに乗ってる途中にわけのわからない奴にわけのわからない理由で掴みかかられた人間の模範例に成り果てちまいやがった。埒が明かないんで周りを見回すとみんな俺と目を合わせようとしない。俺よりも前にいた数人は素知らぬふりをして、まるで急に急用を思いつきました、てな感じで歩きはじめて、進んで闇に飲み込まれていった。

 俺はとにかく一刻も早くここから逃げ出たくて、回れ右してエスカレーターを逆走しはじめた。流石の俺も生まれて初めての行為だ。ところが、折悪く、俺の前には一人もいなかったのに、俺が上り始めたとたんに何人もの人間が右側のあいている方を歩いて降りて来やがった。もちろん俺はそんな奴らのことを気にする余裕もなく、押しのけて上って行こうとすると、そいつらはまるでひどい人権侵害を受けたみたいな顔をして迷惑そうに

俺のことを見やがるんだ。エスカレーターを逆走することは悪質な犯罪行為だ、みたいな顔でな。しかも、後から後から何人も何人も来やがる。エスカレーターの上を歩かないでくださいという張り紙が見えないんだろうか、こいつらは。さらに悪い事に、俺が人の流れを掻き分け掻き分け、なんとか上流にさかのぼろうとしていると、今度は制服を着た駅員まで現れ「エスカレーターを逆流しないでください」とかなんとか正論を吐きながら、肩をつかんで俺をぐいぐい下流に押し流そうをする。俺は押し返されないように踏ん張りながら、

 「でもこの下は焼却炉なんだろが!」

 「ええ、これは焼却炉行きなんですから当然です」

 「俺はそこに行く気はないんだ。だから通せ!」

 「でもエスカレーターは逆流すると他のお客様に迷惑ですし、危険です」

 とこれが本当の押し問答、ええい南無三と、横っ面を思い切り跳ね飛ばし、尻もちをつかせたところをその上を乗り越えるように走り出す。しかし、前方から来たのは同じ制服を着た何人もの男たちで「エスカレーターを逆流しないでくださいエスカレーターを逆流しないでください」と叫びながら俺を取り押さえようとする。俺はかばんを振り回し、駅員もそうでない奴も薙ぎ倒して応戦する。幸い、全員最低限のルールは順守しているので、俺より下に行ってしまった奴らはみんな大人しく焼却炉へと直交してくれて、後ろから襲ってくる奴はいなかったので戦いやすい。が、それでもさすがに多勢に無勢、まるでミツバチに取り押さえられたスズメバチみたいに人間肉だんごの下敷きになってしまい、いくらもがいても身動きできなくなる。これでおしまいかとも思ったが、火事場のクソ力を発揮し這い出し、手すりに上って、エスカレーターの横から這い出そうとした。そうすれば、横の階段に落ちる計算だったんだ。背中や頭は打つかもしれないけど、燃やされるよりずっとましだろ? でもどうやら俺が甘かったらしいんだ。来る時には気がつかなかったんだが、エスカレーターの手すりと階段の手すりの間には隙間があったんだ。エスカレーターから必死に脱出した俺は、助かったと思って、ひっくり返って体重を投げ出し、そこにはまっちまった。そしてそのまま、奈落の底にまっさかさま。どれだけ長い間落ちてたのかも記憶にないくらいさ。

 

 後はお前も知ってるだろ。その後、俺はこの暗い世界に落ちてきて、偶然段ボールの山の上に落ちたからどうにかこうにか助かって、それをお前さんが見つけてくれて、今もずっとここに住んでるってわけさ。今ではあの電気と光に満ちた世界も、何だか夢のようにしか思い出せないって有様さ。

解説

深い地下鉄なんかにある長いエスカレーターが好きで。

タグ

書庫に戻る