淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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溢月

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溢月

たまには昔の話でもしようかの。

昔は暦は月に従っていたのじゃ。今のような日にではなくの。

今の暦でももちろん月はある。じゃが、これは本当の月ではなく、日の陰のようなもの、日の反映のようなものにすぎん。じゃから、日の都合に合わせて伸びたり縮んだりするわけじゃ。

最近の若いもんにはそれが当たり前に思えるかもしれんが、これは長い長い歴史から見たら割と最近のことなんじゃよ。

昔の月はそうじゃなかった。決して日に頼ったものじゃなく、自分の都合で満ち欠けし、自分で光り輝く存在だったのじゃ。

今、地上の生きとし生けるものが日によって生きるように、そのころは月下の全ての被造物が月によって生きていたのじゃ。月の出とともに寝床から起き上がり、月の入りとともに寝床に潜り込む。そして月が満ちるに連れて肥え太り、月が欠けるとともに痩せ細ったのじゃよ。

その頃、特に楽しかったのは、満ちすぎた月が溢れることじゃった。今の月は、日によって満ちたり欠けたりするから、完全に満ちればそこから欠けていくしかないじゃろ。じゃが、当時の月は自分で満ち欠けしていたから、勢いで満ちすぎてしまうことがあったのじゃ。

娯楽の多い今では考えられんかも知れんが、あの頃はそれだけが楽しみで、みんな、月々の苦しい生活に耐えておったのじゃよ。

月が溢れるのは必ず事前にわかった。月が溢れる前というのは、月が満ちていくのが速すぎて、とても止められないことが一目瞭然じゃからの。そうすると、その頃わしが住んでいた海辺の村に平地の街や山からたくさん人が来たもんじゃ。月が溢れたときに、一番楽しめるのはなんと言っても海じゃからな。いつもより人出が多くなった村は沸きかえるようじゃった。若かったわしも、月が溢れる前から普段の漁の仕事もほっぽり出して、祭りの準備に大わらわじゃ。

月が溢れるときだけは月の出のかなり前からみんな起きておった。そして海から、銀色に輝く満月よりもさらに満ちた月が出るのを海岸で眺めるのじゃ。

日はもちろん月に空を譲って、山の向こうに沈んどる。海はまん丸よりもさらに丸くなった月の光だけ全身に浴びて、キラキラ光っとった。海から陸に風が吹いて、波がゆらゆらと立ち上がり、映った月を三日月のように歪めたのが、まるで海に船が浮かんでおるようじゃった。わしらはその銀の船に次々に飛び乗って、ゆらゆらと昇る月に向かって月桂の櫂で漕ぎ出すのじゃ。

急がないと月が溢れてしまう。月が溢れる前にできる限り近くまで漕がないと台無しなのじゃ。

月の下まで辿り着ければ、あとは月が溢れるのを待つだけじゃ。その間、わしらは海に映った月ができるだけ丸くなった瞬間を狙って掬い上げ、器を作る。これは相当慣れないといいのが作れない。これの出来が、ここからのお楽しみの首尾に関わる、というわけじゃ全くないのじゃが、それでもわしらはこの器の出来を毎回毎回競ったものじゃった。

そしてそのときが来た。一際大きく揺らめいたかと思ったら、月がどわっと溢れたのじゃ。そして海に向かってどどどと溢れ落ちてくる。わしらは慌ててそれを受け止めようとする。しかし揺れる小舟の上じゃ、なかなか思うように動けん。中には海の中にどぼんと転げ落ちるものもいる。わしはそれを見て笑いながら、自分もすぐに海に転げ落ちてしまったわけじゃ。

こぼれ落ちた月をうまく掬い上げられたやつらは、美味しそうにぐいっと飲み干しておった。そして顔を満月みたいに輝かせて、あっはっはと笑ったり、大きなげっぷを出したりしておった。

船の上のもんも、船から落ちたもんも、みんなみんな楽しそうじゃった。

わしは泳ぎは得意な方じゃったので、月がたくさん溢れとる場所まで急いで、大きな雫を顔で受け止めた。顔中月の雫だらけになったが、ほとんどは飲み尽くせたはずじゃ。わしは拳骨が入るほどの大口で、村では有名じゃったからの。

そのうち、ほとんどものが酔っ払って船から転げ落ちてしまい、海にぷかぷか浮いて空を眺めていた。それでも月は溢れ続け、わしらの上に雫を垂らし続けていたのじゃ。

海の上にこぼれた月はそのあと集められて、村の倉庫に大切に保存された。

それは次の新月にちゃんと月に返さなくてはいけないものじゃからの。

海から暗闇に輝く新月が昇ると、溢れた月がたんまりと入った樽を船に乗せ、水平線に向かって漕ぎ出すのじゃ。そのときの思い出ももちろんたんまりとあるが、それはまた今度にしようかの。

解説

参加させてもらえることになったかぐやブックスの新しいSFアンソロジー『新月』のクラウドファンディングが2022/03/31に目標の250万円を達成し、さらに次の日が4月1日のエイプリルフールでしかも新月だ、ということを記念して書いた小説です。

月というモチーフと、支援が100%を超えたことをかけています。

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