交通警備員の覚醒
風雨に耐え交通整理をしていた交通警備員は悟った。
自分こそ支配者なのだ、と。
現代社会において道路交通網は社会の運営に必要な物資を輸送する血管である。止まってしまえば社会全体が機能不全に陥る。
今彼は赤色誘導灯によってそれをコントロールしている。彼こそが社会の支配者でなくて、誰が支配者なのであろうか。
彼は自分の力を試すために、まずは片側交互通行になっている道路に、対向車が来ているにも関わらず車を誘導した。
必然的に車同士は正面衝突し、運転者は自らのフロントガラスを突き破り、相手のフロントガラスへと突っ込んで絶命した。
彼はそれを見て良しとした。
しかしそれを見ても、良しとしなかった者があった。工事の現場監督である。その男は哀れな凡夫であった。
そのような存在に、怒髪天を衝く勢いの怒りようで迫られても、彼は気圧されることはなかった。自分は今や、道路交通システムと接続し、不死者へと存在の階梯を登ろうとしているのである。
彼は赤色誘導灯を一振りした。トラックが現場監督を轢き潰した。
現場にいた他の作業員たちは、事故車の周りに集まっていたが、何事かおかしなことが起こっていることに気づき、それが一体なんなのかも分からずパニックになって逃げていく。今やどうでもいい存在どもではあったが、手に入れたばかりの全能感に酔いしれた彼は、幼気な子供が蟻を戯れに殺すように力を振るった。
逃げまどう者たちの目の前で世界が歪んだ。彼のゆっくりと扇を振るように動かすような手の動きに合わせて、道路が左右に波打ち始めたのだ。
走っていた車がハンドルを切り誤ってスピンし、歩行者たちを跳ねていく。
一人の男が慌てて車の入れない脇道に入ろうとする。それを地面から竹のように次々と生えてきた柱が遮る。その先端に赤青黄色と色とりどりの標識が花ひらいた。
人々の脚に白線が絡みつき引きずり倒す。立ち上がった横断歩道の縞模様が逃げ場を塞ぎ、狭いところへ犠牲者たちを押し込める。こうして殺戮は近代の道路交通システムが追求して止まなかった卓越した効率性を確立していく。
自らの指揮棒が奏でる阿鼻叫喚に聞きいり、自らの絵筆が描いた地獄絵図を眺めて、彼はますます良しとした。
そして自慢げに赤色誘導灯を撫でさすりながら、次に自分が何をすべきか考えている。
パトカーのサイレンが近づいてくる。最初の一台を、意味を教えてもらった覚えがあるが思い出せない道路に描かれたひし形で突き刺し、慌てて逃げようとした数台をメビウスの輪状にループさせた道路に閉じ込めた。これで、しばらくは警戒して近づいてはくるまい。
一人一人の警察官はそこら中に転がっている肉塊がかつてそうであったような哀れな凡夫に過ぎない。しかし、それらを動かしているのは本物のシステムだ。
そのシステムが、システムと同化し大きな力を手に入れようとしている存在に気づいたのだ。
そのシステムにとって彼は、生物体にとってのガン細胞だ。システム全体の統制から離れ、輸送網から勝手に物資を取得し、際限なく成長を始めようとしている、滅ぼさざるを得ない存在。滅ぼさなけらば、自分が滅ぼされる存在。
それではガン細胞にはできないことをやってみせよう、彼は考えた。
地面が震え、地割れが起きて電柱が倒れる。そして電線や光ケーブルがちぎれて、垂れ下がり、地中から顔を出す。
彼はそれを掴む。彼の体がビクンと震える。高い電流が一気に駆け巡り、彼の筋肉が収縮する。そして発火して、焼け焦げ始める。
しかし彼は感じていた。体内に満ち溢れる情報を。
全地球を覆い尽くした通信システム。それはこのいくつもの小システムが緩く連結された巨大なシステムを円滑に運用させるのに不可欠な神経網だ。その脳なき生命体全体から、人類の脳程度にはとても治らない量の情報が眩い光に乗って送られてくる。
それが彼の体を貫き、膨張させ、勃起させ、破裂させた。
絶頂とともに内部を撒き散らし、生命体としての彼の活動は停止した。
しばらく遠巻きに見ていた警察官たちは恐々と彼に近づき、その「死」を確認した。
そして、それは通常の死として処理された。彼の体が通常の死体であるのと同じように。
一人の交通警備員が、おそらくは仕事のストレスか何かが原因で発狂し、現場監督や同僚を突発的に殺傷した。そして現場にあったいくつかの自動車を暴走させて歩行者を轢き殺し、事故の結果ちぎれて垂れ下がった電線を自ら掴んで自殺した。
そんな今の世の中ではどこにでも転がっている話として書類にされ、ニュースとして報道されてすぐに忘れ去られてしまった。
しかし、その「死」は本当に通常の死だったのだろうか。
彼の野望はどうなったのだろうか。単なるガン細胞としての存在を越えるために、道路交通網だけではなく、通信システム網にも接続しようとした彼の野望、血管だけではなく神経網も乗っ取ろうとした彼の野望は。
それは誰にもわからない。
もしかしたら、すでに変化は訪れているのかもしれない。ちょっとしたニュースや宣伝やドラマの端々に、彼の姿が現れる。ちょっとした雑音や人には聞き取れない音波の中に、彼の声が混ざる。人々の噂話に現れる「知り合い」とか「誰か」とは彼のことではなかろうか。匿名掲示板やSNSに突然現れては消える実態のない人物はもしかしたら彼ではなかろうか。
しかし、我々はそれに気づくこともできない。
我々は彼のようなシステムそのものではなく、システムの一部に過ぎないのだから。